[memo]『パースの生涯』

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もうひとりの「チャールズ」についてW・H・オーデンは次のように書いていた。〔これはパースと彼の父親との関係の反映の一つでもある? では母親との関係は?〕

 ダンディー……とは金や暇という何らかの幸運な贈り物を必要とする点で詩の英雄のようなものであり、他の誰もと同じようにその人が生まれ落ちた汚れた自然から自分をダンディーに仕立て上げる意志を授かっていなければならないという点で哲学の英雄のようなものである。しかし、ダンディーは行動の人でも知恵を求める人でもない−−ダンディーの野心は、人々に賞讃されることでも神を知ることでもなく、ただ自分独自の存在であって、他の誰とも違っていることを主観的に意識できるようになることだけである。実際、彼は逆さまになった宗教的英雄である。すなわち、魔王であり、反逆者であり、それが神であれ社会であれ自分自身の生まれつきのものであれ、いかなるものによる命令にも従わないことによって、自分の自由を主張する反抗者である。真にダンディーな行為とは「いわれなき行為」である。なぜなら、まったく不必要でいかなる必要によっても動機づけられていない行為のみが、絶対に自由に自分で選んだ個人の行為だからである。(シャルル・ボードレール「内面の日記 Intimate Journals」に付されたWynstan Hugh Audenによる序文)本書p59-60より


ニューヨークでどん底の生活を送ったあとにウィリアム・ジェイムズに宛てた書簡。〔引用部分以外にも信念や道徳律について示唆に富んだ言及あり〕

 この二、三年の間に、哲学について非常に多くのことを学んだ。というのは、ここしばらくは、それはとても惨めで何もかもうまくゆかず、もう普通の経験をしている人にはとても理解することも考えてみることもできないようなひどい生活をしていたからね。(中略)。ユゴーは食べ物を一口も口にせず食べ物にありつく当てもない日が一体何日ぐらい続く経験をしただろうか。私の場合は、現時点で、ほぼ三日になる。それに、それだって悲惨な経験ということのごく取るに足りない一部分にすぎない。この年月に、人生について、世間について、たくさんのことを学び、それは哲学に強い光を投げかけている。それは疑いもなく、一般的に言って、精神的なもの(the spiritual)をより重んずる傾向のあるものだが、それは抽象的な精神性ではない。「貧しい人々」のために、さらに盲目的に「それに値する貧しい人々」のために何かしようとしているご立派な人々のことを思うと、めまいや吐き気をおぼえるね。他方、それはゴータマ・ブッダへの畏敬の念をいや増しにする。このようなことは、一見したところ君の本のテーマから逸れているように思われるかもしれないが、それほど関係のないものではない。というのは、多くの経験から、個人の行為こそ概念における唯一の実在的な意味として重んじるようになったと同時に、貴重なのは、行為における単なる恣意的な力ではなく、それが考えに与える生命であるということが、これまでよりもずっとはっきり見えるようになったということがそこには含まれているからだ。
(中略)
 宗教そのものは、私には野蛮な迷信のように思われる。しかしキリスト教について考えてみると、あるいは仏教と呼ぶべきだろうが、というのは、もしそれが宗教と呼ばれるとすればの話だが、たしかにインドの王子の方が共観福音書の奇跡屋よりも宗教というものを比較にならないくらいより完全に体現しているからね−−そしてその顕著な特徴はそれがより高度の権力の機嫌をとるあらゆる術が堕落であることを教えていることで、それを私は宗教の定義であるとみなしている−−それは「生きること」を生み出す力をもっているので、本質的に最も深い哲学のように思われる。よい聖職者というものは宗教にあまり注意をはらわないものだ。彼らは人々に生活の仕方を教えるものだが、それも概して人々の心を高めるように。(13 March 1897)本書p443-445より


最終章で著者は同じ手紙をもう一度引いている(のだが、省略があり、文脈の違いもあってか、訳語や文体も含めて、訳文は微妙に異なったものになっている)。

 この二、三年は大変惨めで不首尾な年月で、普通の経験をしている人にはとても理解することも考えることもできないようなひどいものだったので、その間に哲学について非常に多くのことを学びました。……多くのことを人生や世間について学び、それは近年の哲学に強い光を投げかけています。間違いなくそれは霊的なものをより高く評価する傾向にあるものですが、抽象的な霊性ではありません。……それによって、個人の行為を概念の中にある唯一の実在的な意味としてこれまでにも増して高く評価するようになるとともに、行為における単なる恣意的な力ではなく、それが観念に与える生命こそ貴重であるということが、これまでになくはっきりと見えるようになりました。(前出書簡)本書p577より


1868年にチャ−ルズはこう書いている。「個人のバラバラの存在は無知と誤りによってのみ顕わされるので、仲間の人々から切り離され、その人と仲間とのあるべき関係から切り離されているかぎり、単なる負の存在にすぎない」(『チャールズ・S・パース著作集−−年代順配列版』第2巻)(本書p571より)〔切り離された個人の倫理的根拠の否定〕

ジョセフ・ブレント『パースの生涯』(有馬道子訳、新書館、2004年)[ISBN 4-403-12017-2]