『西田幾多郎』


西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)


純粋経験」から「場所」を経て「私と汝」へ。「われ思う、ゆえに、われあり」のデカルトと「思う、ゆえに、思いあり」の西田との違い、「言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている」ウィトゲンシュタインと「体験が言葉と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている」西田との対照も面白い。ベルクソンドゥルーズを参照枠として西田の思考を一貫した「生命の哲学」として編み直してみせたのは檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学』だったけど、本書はむしろ西田を参照枠にした永井均自身の哲学(を理解するための一参考書)であるような。永井の言語的センスが光っている。

私は無の場所であるから、すべての存在者(有る物)はその無に於いてある。だが、汝は存在者(有る物)ではないので、その無に於いては無い。それゆえ、私は汝と直接に出会うことはできない。出会うことができるのは、彼と彼(個人と個人)である。私は、彼(個人)となれば、彼(個人)となった汝と出会うことができるが、私と汝は、場所と場所(無と無)であるから、決して出会えない。私の側からいえば、汝の場所は、無い。それは、無の場所にさえ現れえないのだから、無でさえない。いわば、無のさらなる無である。しかし汝は(ありえないはずの)別の無の場所という資格で、この無の場所に登場してくる。どうしてそんなことができるのだろうか。それは、先まわりしていえば、汝が言葉を語りうる存在だからである。もっと正確に言えば、そんなことができるということがすなわち言語(言語化された新しい種類の場所)の成立そのものなのである。p91