『思想としての〈共和国〉』


思想としての“共和国”―日本のデモクラシーのために

思想としての“共和国”―日本のデモクラシーのために


レジス・ドゥブレの'89年(フランス革命200周年)のエセー「あなたはデモクリットか、それとも共和主義者か」、ドゥブレとの対話「現代世界に直面するメディオローグ」(三浦信孝)、講演「フランス共和国の孤独」(水林章)、シンポジウムの基調報告「新しい〈ユマニテ=人文学的教養〉のために」(水林章)、鼎談「共和国の精神について」(樋口陽一、三浦信孝、水林章)、その他がおさめられている。

共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、それは何事も自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにある。ところがデモクラシーにおいては、反対に、学校が社会に似ていなければならないのである。デモクラシーにおける学校のもっとも重要な任務とは、労働市場に見合った生産者を養成することなのだ。その場合、学校は「社会に対して開かれて」いることを要求されるし、また教育は各人が好きなように選ぶことができる「アラカルトな教育」でなければならない。共和国においては、学校は囲いの壁の背後にある。固有の規則をもった閉ざされた場所以外のなにものでもない。この社会から閉ざされているという性質がなければ、学校は、社会的、政治的、経済的、宗教的な力の矛盾した作用に対して、独立性(ライシテ=非宗教性の類義語だ)を保つことができないのである。学校についてこんな言い方をするのは、人間を彼の置かれた環境から解放しようとする学校と、逆に、その環境によりよいかたちで送り込もうとする学校は、名前は同じでもまったく別物だからである。p13


共和主義(フランス)とデモクラシー(アメリカ)を非常にわかりやすいイメージをつかって比較対照してみせるドゥブレだが、彼は当然それら二つのいずれもが理想であり、現実には相互に浸透しあっていて、したがってそれら本来の純粋性を減殺したかたちでしか実現されえないことを承知している。そのうえでしかし、現代世界の勝者であるデモクラットではなく、やはり共和主義者を応援するのである。学校は「教師が子供たちに教師なしで考えること、すなわち自律を教える」ところだ、とする見解には素直に共感。