離水

朝、富雄川沿いを北に向かう通勤の途中、慈光院の東隣にある溜池から鴨が離陸するのを目撃した。浮かんでいた水のうえからだから離水というべきか。羽ばたきとたぶんは足掻きでぐんぐん加速しながら数メートル、しかしいったん水掻きの付いた足を水から抜いたその後は、身体を水平にしたまま、二三度腹が水面に擦れることがあっても、足で水面を蹴るようなことはせず、ひたすら羽ばたきだけで、すれすれの飛行をさらに数メートル、それからふわっと空に飛び上がっていった。この池の脇を自転車で通りすぎるあいだ、約二十秒のうちの数秒間の出来事。

『ラスト・コーション』色・戒(英題 LUST, CAUTION、2007年、中・米、アン・リー監督)

昔の上海っていうのは、こういう感じの街だったのだろうか。日本占領下の上海。祖国を裏切って力を手にしている特務機関の男と自らの恋を抗日運動という使命として生きようとする女。女は信じさせたい、男は信じたい。二人の動きを監視しているはずの、それぞれの「組織」の動きなどは、最小限度に切り詰められ、画面はむしろ時代や街の空気の方を映し出そうとしている。疑心暗鬼の心理的葛藤は、もっぱら二人の性愛への沈潜において描かれる。嘘から出た誠。思わず洩らされる言葉。それによって、相手に、また自分自身に、最も近づき得たはずの瞬間が、その自己自身との、そして相手との、決定的な離別として実現してしまう。敵を欺いていたことだけでなく、味方への裏切りにもなる告白として。(以下、ネタばれを含む)

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神戸元町にて

近所のあちこちに小さな雪だるまが、まだ溶けずに残っていた。MSKとおでかけ。元町では大丸前の道路が封鎖され、南京町春節祭の一部だろう、爆竹がはぜ、銅鑼が鳴り、全長50メートル近い黄金の龍が、昨日の降雪などすっかり忘れたように、勇壮に空を舞う。メインストリートを逸れ、遅い昼食を香港料理と看板にあるお店で軽く。餃子も食べたが、「中国製ではありません」の貼り紙がこの街にも。夕刻、映画「ラスト・コーション」を観る(@シネ・リーブル神戸)。夜、MKKと合流、ネパール料理店へ。

『輝ける女たち』英題 FAMILY HERO(2006年、仏、ティエリー・クリファ監督)

家族とは、互いを理解し合うとは、をあらためて考えさせてくれる映画。たまたまふりかかった条件の下で、自分も他人も否定することなく、それぞれのらしさを生かしながら、互いに共存の道を探ろうとする無様な姿が知的でかっこいい。亡くなった人と言葉を交わしていたのは、画面に映っていたひとりだけではなかったのだろう。そういえばフランス語で歌われるオン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリートが何だかこそばゆいのだけれど、ニースを訪れたことがある人なら、夕暮れのニースの海岸のあの遮るもののない横殴りの日差しの黄金の眩しさと漆黒の闇のような影の深さを目にすることができるのは、きっと嬉しいことだと思う。
〔以下、追記しました。〕
この映画は、ニースにある小さなキャバレーの相続をめぐるお話です。突然の死を遂げたオーナーの遺言によって、お店を相続するのが「息子」の自分ではないと知った主人公の奇術師は、しかも相続人たちが(それは主人公の実の息子や娘なのですが)すぐにも店を売り払うというので、その将来を設計しなおす必要に迫られる、というわけです。
きっとこのキャバレー「青いオウム」というのは、ちょうどマジシャンにとって小道具に使う筐に相当するような、そこからウサギが飛び出してきたり(主人公の元妻ふたりが、彼が可愛がっているウサギをダシにして拵えたジョークが笑えます)、それもろともに女性の胴体をまっぷたつにしてみせたりするような、そんな「入れ物」なのでしょう。種や仕掛けがたっぷりのワケありの入れ物が、彼らの関係を組み換えていきます。隠し部屋なんかもあったりして、そこで同性愛者である息子は、母親がかつて娼婦であったことをはじめて知ったりします。突然の死を遂げて亡くなってしまった店のオーナーと彼の「家族」たちとの「対話」こそが、入れ物に用意された種であり仕掛けであり、それが彼らの手持ちの情報を生きる知恵に変えていくのですが、その対話の方法が、それぞれの個性とその組み合わせの妙によって多様なものとなっていて、そのことがこの映画を明るく楽しいものにしているように思います。