踏切にて

北から南に踏切を渡ろうとする手前で、きん、鳴る警報、こんきん、降りてくる遮断機の黄と黒、くり返す警告音を聞きながら、阻んだ竹竿にある節から節へと目をやって、こんきんこん、ついでまだ明け切らぬ蒼い空、見上げればいつか見たことのある、ようなないような、いや見たことなんてあるはずのない、下弦も過ぎて欠けの進んだ月がほぼ正中しつつあり、「は」と「ほ」のあいだの音が出そうな口をあけて、喉をこするようにゆっくりと、でもしっかり強くも吐きだした息が、ごとん、宙に白く濁るかどうか、がたん、寒さを確かめ、電車が、ようとして、横切っていく、たのに、窓を通して明るい客車の中にはっきりと見える人々、やがて、がたごとん、その人びとのひとりに自分もなるのだな、などと、もうさっきまでの目論見もすでに、けれども自分を誤魔化したというわけでもなく、忘れてしまっても、やっぱり結構寒いのか、ぶるっと身震いひとつして、バーが上がり、行く手が開ける。

『バベル』BABEL(2006年、米、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)


だが、言語が存在する以上、ひとは自らの苦痛であれ、それを間違った名で呼ぶしかない。(「名の間違いについて」『無能な者たちの共同体』p153)

『九鬼周造随筆集』(菅野昭正編、岩波文庫、1991年)

岡倉天心(岡倉覚三)、大友兵馬、橋本雅邦、川端玉章、沢瀉久孝、ニイチェ、ギュヨー、コロー、武林文子、松田文相、カント、ポール・ヴァレリイ、西田幾多郎天野貞祐、落合太郎、ヒルティーモンテーニュ、メーヌ・ド・ビラン、プラトンフォイエルバッハソクラテス、アガトン、アルキビヤデス、聖フランシス、聖女クララ、ジャン・ジャック・ルソーデカルト、ハーヴェー、セヴィニェ侯爵夫人、モリエールベルクソンハイデッガー、弥蘭王、那先比丘、ショーペンハウエル藤原浜成、清輔、俊成、旗野士良、佐藤誠実、萩原朔太郎三好達治森鴎外、岩野泡鳴、正岡子規武田祐吉三枝博音、久曾神昇、空海エピクテトス、岩元禎、西郷南州(西郷隆盛)、エピクロス、マッカリ・ゴーサーラ、王充、アリストテレス、馬田柳浪、駒沢次郎左衛門、深雪、ツァラトゥストラ山鹿素行、三村起一、吉野信次、お駒、末弘厳太郎、大野緑一郎、大森洪太、戸田保忠、平井澄、平田慶吉、江木定男、菊池寿人、津島寿一、森順次郎、杉宜陳、半井清、膳桂之助、田尻生五、中瀬拙夫、谷崎潤一郎辰野隆、戸田貞三、児島喜久雄、立沢剛、松本重彦、今村完道、岩下壮一、岩下清周、菊池寛、ギボンズ、レゼー院長、桓武天皇西行、広重、ゲーテ、ケーベル博士、フッサール教授、ヨハネ、マタイ、張横渠、沢庵禅師、平賀源内、布施松翁、ピタゴラス、ライムンドス・ルルス、ヤコブ・ボェーメ、ヘーゲル、クロパトキン将軍、クロキー将軍、三木清リッケルト教授、山部赤人スピノザベートーヴェン、ワグナー、薬師丸、九鬼馬助、九鬼左馬之助、坂上田村麻呂ファウスト、浜田総長、本田義英、成瀬無極、新村出、勝太郎、石井菊次郎、フェノロサ、スペンサー、ブールデル、ルフェーブル、仏副総理ラヴァル氏、ウィリアム・ジェームズ、ホワイトヘッドフロイトヘラクレイトス、プロチヌス、タゴールシェリング、クーノー・フィッシャー、ブートルー、メルシエ、ド・ウルフ、カージルナル・ニューマン、アウグスチヌス、オイケン、田中秀央、リギョール師、モーリス・ブロンデル、シルヴァン・レヴィ、メイエ、三谷隆正、田中耕太郎、岩波茂雄林芙美子、ドーデー、エルンスト・ホフマン、ノヴァーリス、オスカー・ベッカー、ベデッカー、氷上英廣、ラインケ、フェヒネル、ヨナス・コーン、幸田露伴、廉頗、藺相如、大観、観山、春草、岡倉由三郎、久保田鼎

勝手に

某所で紹介されていた「勝手にブログ評論」というのをやってみた。
http://onosendai.jp/hyoron/hyoron.php
何だか、わたし自身の文章に似ていなくもない。

なにかの原因が西脇順三郎にあると考えるのは、幼少期にトラウマを抱えている可能性がある。
総合得点 72点
(中略)
国立国際美術館は絶句するほど30年分らしい。言い換えると、ブラックにとって大切なものは3つある。メンバー、畠山直哉、それに杉本博司だ。イートン校を知らない貴族がいないように、 4128を知らぬニューヨーカーも居ないのだ。とりわけ英国では、ベートーヴェンを知らずしてブラックを語るなかれ、と言われる。宮本隆司に原因を見いだそうとするのは滑稽であるばかりか醜悪ですらある。もっと教区教会を大事にせよ。そうか。ではベートーヴェン5963はいかがだろうか。むしろ「メンバー」大会などと称して、それをたたえるのはどうだろうか。このブログの本題、ブラックについて M’s Memos的視点からみたらどうだろう。「コミックス」主義を掲げる人々を、無謀なドン・キホーテと嗤う事は容易い。だが果たしてそれで良いのか?畠山直哉は到底実現不可能に見える。実は、大多数の英国人は 浜口陽三を愛用している。こっそりと。ベートーヴェンを思い出していただきたい。
(後略)

四方田犬彦『翻訳と雑神』(人文書院、2007年)


詩集『Ambarvaria』の作者はその晩年、ギリシャ語と漢語の比較研究に没頭し、同僚や弟子を二十年以上にわたって悩ませ続けた。しかしそれは西脇順三郎の詩業と無関係な営為ではなかった。そこには「完全にして純粋な言語、永遠に到達不可能なユートピア言語」への夢が一貫してあったのである。
こう述べる四方田犬彦がたよるのは、ホセア・ヒラタの論である。ヒラタは「天気」を解釈するにあたり、微妙な細部である「戸口」という一語からはじめ、それがバベルの塔に関係していることを指摘し、西脇の詩をベンヤミン-デリダの問題文脈に導いていく。ヒラタがそこから新しく西脇の詩に切り込んでいくその視座を、四方田氏は「詩を書くことが翻訳と同義であるという認識」であると指摘する。そして次のように述べる(どこまでがヒラタ氏の見解なのかが不分明なのが気になるが、そして少し長いが、引用してみる)。

ヒラタの論を踏まえたうえで述べるならば、この「天気」という詩そのものが、翻訳をめぐる探究行為であり、その探究の結果としてもたらされた作品であると解釈される。「戸口にて」、「さゝやく」者たちは、バベルの塔の崩壊のあとを生きる者たちであり、その言葉は当然のことながら純粋状態から失墜して混乱し、互いに通じあうことができない。塔の破壊は宝石を覆したかのような出来ごとである。だが西脇は、こうした状況を逆に肯定的に読み替えてしまう。それは「神の生誕の日」でもあるのだ。純粋言語が解体し、人びとは互いに翻訳を通して意思疎通することを強いられるようになったが、翻訳行為の出現こそが神を誕生せしめることになった。ここには先に述べたデリダに代表される、ユダヤ教の厳粛にして矛盾に満ちた、怒れる老人の神からははるかに遠い、晴れやかにして初々しい神の表象がある。神とは翻訳の可能性であり、翻訳を通してポエジーが一瞬ごとに実現されてゆくことへの期待そのものである。完全言語が崩壊することによって、はじめて地上に詩が実現されることになった。「天気」という詩はまさにその事実の宣言にほかならない。そして、この詩が『Ambarvaria』の巻頭に置かれることによって、西脇は詩の根底には見えない形で翻訳行為が横たわっているということを告知してみせた。それがベンヤミンが「翻訳者の使命」を執筆した一九二三年からわずかに十年後の出来ごとであったことは、興味深い事実である。(「西脇順三郎と完全言語の夢」)p72-73

  • Hosea Hirata, The Poetry and Poetics of Nishiwaki Junzaburo: Modernism in Translation(Princeton University Press, 1993). 

(NACSIS Webcat http://webcat.nii.ac.jp/webcat.html


翻訳と雑神

翻訳と雑神

『敬愛なるベートーヴェン』Copying Beethoven、2006年、イギリス・ハンガリー、アニエスカ・ホランド監督

神の声を聴くBeastと野獣の耳をよく知るBeauty。しかし世代の開きなのか、男女の差異なのか、それとも才能の多寡なのか(そのどれでもないような気もするけれど、とにかく)、彼らには容易には越えられない懸隔*1があって、それを皮一枚残したままの近接である。その薄いようで厚い壁をやすやすと通り抜けるかに描かれるのが、音楽である。魂と魂をつなぐ橋ということをベートーヴェンエド・ハリス)がいう場面がある。鳴り続けているようですでに止んでおり、もはや鳴ってはいないのに響き続けている音楽。そして彼ら自身が、楽曲におけるある種の音と音との関係のように、付かず離れず、互いに対して厳しいようで優しく、また脆弱なようで頑強なのである。芸術家が野獣らしさの極みをさらけ出すそのとき、神の声を聞き届けるものとしての自己を確信できるのは、音楽に直向きなアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)の前だからであり、美女がほとんど下女同様の振る舞いを余儀なくさせられながら、そのときこそ音楽を愛する者としての自身を確認できるのは、楽聖でもある野獣の前だからである。敬愛は、たんなる従順を意味しない。そこには自立が含まれている。

腸はとぐろを巻いて天に向かい
頭脳よりサエわたる
クソにまみれるから天国に行ける


ベートーヴェンがいう頭や心にではなく腹に宿る神っていうのが面白い。

*1:それは彼らの作る音楽と彼ら自身の生との間にあるズレと関係があるかもしれない、などと考えていて、映画を見終わったあとに思ったのは、ベートーヴェンにおいては、彼が音楽を作ることと彼自身の生を生きることとの間にほとんどズレがないのに対して、アンナ・ホルツという架空の人物においては、そのズレが解消されることなく、むしろ次第に大きくなっているのでは、ということ。そのことは、この映画では、ベートーヴェンがただの一度も回想をしないという形で示されている。つまり彼は、そのときそのときだけを生きている、いわば「今を生きる」人物として造形されているのに対して、アンナのほうは、最後のシーンを除いてこの映画全体が、彼女の回想でできているということ、そこにアンナ自身の音楽と彼女の生とのあいだにあるズレのようなもの(それは監督自身の映画制作と彼女自身の生との間にあるズレのいくらかの反映でもあるだろうか)を見ることができる。そして二人のこの差は、このあとも縮まりそうにない。もちろん、この距離こそが、「作ること」を可能にするのではある。彼女の「現在」に戻ることで、映画はちょうど楽曲の演奏のように終わる。そのあいだに私たちが見聞きしていたのは、彼女の「過去」だったのだろうか、それとも私たち自身の「未来」だったのだろうか。そして映画と私自身の「現在」とのズレ。そこにも否応なく目を向けさせられてしまうのだが。