岡田温司『処女懐胎』



見えないものが見えるようになり、手の届かないものが手の届くものになりうる。他の一神教とはちがって、多くの偶像を生み出すことになった、キリスト教の根底にある「受肉」という考え方が、なんとも興味深い。本書では、キリストの「家族」が、ではどのように特別な存在として図像化されてきたのか。「聖母」マリアの処女懐胎、無原罪、「養父」ヨセフ、祖母アンナについて、宗教学や図像学をベースに、神話学、人類学、医学史、ジェンダー論などの知見を自在に取り入れつつ、多角的に論じられる。

なぜそれが「無原罪」を意味しているのだろうか。この図像は、いかにして「無」を、あるいは「〜がない」−−マリアには、その誕生からしていっさい罪がない−−ということを表現しているのだろうか。言葉とちがって絵画はその性質上、否定を表すことはひじょうに困難である。というのも、何かを描くこと、つまり何かが「ある」ことを見せることによってしか、何かが「ない」ことを表現できないからである。p80

もしヨセフが老いた不能者、寝取られ男、女房の尻に引かれる腰抜け、はたまたおどけた道化のような役回りを演じる存在でもあるとするなら、「夫」あるいは「父」の権威は脅かされかねないことになるだろう。(同書 p156)

その意味では、既婚と未婚の違いはあるものの、やはり複雑な二面性を合わせもつマグダラのマリアと似ていなくもない。純潔のままマリアを宿し産んだとされているにもかかわらず、夫に先立たれてからは二度も再婚をして、おまけにそれぞれで子供までもうける女性。由緒正しいダビデ王の家柄の出身であるとされる一方で、深い森のなかで獣に育てられた野性の人間であったとも語り継がれる女性。矛盾に満ちたこの二面性こそが、実はアンナの正体なのである。(同書 p215-216)


内に閉じれば親子が煮詰まり、外に開けば夫婦が冷める。ついにできあがらないのが「家族」という料理なのかもしれない。それだけに、モデルも必要とされるのだろう。どの素材をどう調理してどう盛るか。モデルとしての料理がプロモートするものは、それによってずいぶん変わってくる。「生めよ、ふえよ、地に満ちて地を従わせよ」(『創世記』1:28)なのか、「妻をめとるな。息子や娘をもつな」(エレミヤ書16:2)なのか。血や性を調味料として使わない「家族」、そんな料理もまた(天上にではなく、この地上に)、あるはずなのだが。
岡田温司処女懐胎』(中公新書、2007年)[ISBN 978-4-12-101879-3]