『メルロ=ポンティ』


 経験はその現在において、反省の視線を逃れる。徹底した反省であっても、無言の経験そのものをとらえることはできない。無言のコギトもまた、それが表現されることでコギトとなる。そうであるならば、無言の経験をことばにもたらすこころみはつねに破綻し、そもそも無言のコギトは「不可能」(『見えるものと見えないもの』原書二二四頁、邦訳書二四○頁)なのではないだろうか。
 いま現在の経験を、それが現在であるままに唱いだすことができるなら、ひとは詩人となることが可能であることだろう。哲学的思考がそれを遂行すべき反省、徹底した反省が、現在に追いつくことができないのなら、哲学的な思考はけっして詩となることができず、哲学者は詩人となることがないのではないだろうか。p104


副題にあげた自らの問いにこう答えた著者は、次のように続けている。

哲学者が詩人になることは不可能である。にもかかわらず、哲学的な思考は経験そのもののただなかで、経験それ自体をとらえようとするこころみであるほかはない。哲学的思考の掛け金は、経験の総体以外にはありえないからである。p105


それにしても、著者が最後にあげているメルロ=ポンティの遺著『見えるものと見えないもの』の草稿部分の冒頭(「私たちはものそのものを見ており、世界とは私たちが見ているそのものである。……」原著十七頁、邦訳書十一頁)って、あれ、アウグスティヌスの時間にたいする答えのない問いかけと同型ですよね。

では時間とは何か。私に誰も問わなければ、私は[時間とは何かを]知っている。しかし[時間とは何かを]問われ、説明しようと欲すると、私は[時間とは何かを]知らない。 --『告白』第11巻第14節(『ウィキクォートWikiquote)』)


『知覚の現象学』では、時間はどうとらえられていたか。少し戻ってみる。

 時間とは時間がみずから流れる、みずからを流すことである。時間のうちで運動するものであるなら、他のものによって動かされて運動する。時間は、しかし、それみずからが流れなければならない。その意味で時間は、じぶんでじぶんに触れること、じぶんを触発することで、時間として流れ、そのように流れることで時間となる。しかも、時間そのものを私が構成するわけではないにしても、時間はつねに私をとおって流れ、滲みだしてゆくかぎり、時間によるこの自己触発は、私の自己による自己の触発、私の自己触発でもある。時間に対抗するための「支え」もまた、時間のうちでのみ与えられる(原著四八八頁)。反省は、いま現在の経験をとらえようとするけれども、その反省もまた時間のなかでだけ可能となる。だからこそ反省、反省に先立つ次元をとらえようとする徹底的な反省は、それが徹底的であろうとすることにおいて、つねに不完全であり、完結することをあらかじめ拒まれているのだ。p103


「存在」ではなく、「生成」であること。「だんじて完全に構成されていないということが、時間の本質」(原著四七四頁)なのである。