『ポケットモンスター ミュウツー!我ハココニ在リ』



ミュウツーは、コピーのピカチュウやコピーのニャースに問いかけ、彼らの答えを同時通訳しながらいっている。

「あるがままに生き、生まれるべくして誕生する、それがポケモン、それが生命(いのち)、だが我々はちがっていた、我々はどう生きるべきか、これから何をすべきなのか、お前たちはどう思う?」
「ピカピカチュウ、ピカピカ」
「『ここで隠れ住んでいるのは牢屋で生きているのと同じ』だというのか」
「ピカ」
ニャース、お前は?」
「ニャニャニャ、ニャニャニャニャ、ニャーニャ」
「『月はどこで見ても丸いです』か、だが我々は作られたコピーのポケモンだ、本物のポケモンではない」
「ニャ、ニャニャニャニャニャニャ、ニャーニャ」
「『ポケモンであろうとなかろうと、あそこに光っている月は丸い、ちがいますか?』なるほど、たしかに」


オリジナルポケモンたちが彼らコピーポケモンを見たときに感じるであろう「不気味さ」を先取りしてその心に抱え、苦しんでいるのは、ミュウツーだけのようだ。むろんこのとき、彼ら自身で彼らを産出するミュウツーたちは、先行するなんらかの存在を表現したものとして、つまりは結果としての彼らだけを扱われるべき存在ではない。表象として扱われるかぎり、彼らはオリジナルのたんなる反復でしかなくなる。彼らは、彼らのようなコピーがあってはじめてオリジナルのポケモンたちが価値をもつ、そのような存在ではない。
月の光そのものが太陽の光の反射である。しかし月からの視線がありうるとしても、それは「オリジナルとコピーに差はない」と告げるようなものではない。コピーポケモンたちの生成は、そこでは生存が約束されているオリジナルポケモンたちの世界とは異なるシステムに属しており、しかしそれはオリジナルを超越的なものとして祭り上げるためのものではないし、オリジナルをたんに再生産するものでもないのである。「オリジナルが見ようがコピーが見ようが、月は丸い」。この言葉の裏側で生きられているのは、オリジナルとコピーとの生産過程の差異(多元性)であり、コピーたちの、それ自身個別の(それぞれが他のものになりつつあるともいえる)、生命なのである。
そしてもちろん、異なるものたちが異なるままにそのうちに在るこの世界は、だれにとっても等しいものであり、だれによってであれ、それが囲い込まれるようなことなど、ありえないのである。