『雷鳥の森』『アンナ・カレーニナ』

 白熱した議論ももはやこれまでだ。あれこれの論評ももう要らない。ともかくも猟の日取りが決まり、泣いても笑っても今宵かぎりで、その夜明けが訪れる。
 里はひっそりとして、一見、寝静まっているかに見える。獣猟犬たちだけが起きていて、庭先で鎖を引っ張り、ひと引きするたびに頭をもたげ、星に向かって吠える。犬たちは暦を読んだわけではないが、もろもろのことから、その機(とき)が来たことを察知したのだ。鳥猟犬たちは−−セッター、ポインターフォックスハウンドたちは−−眠りのなかで、いや、眠りではない、あすを先取りした夢のなかで、寝返りをうち、鳴き、うめき、鼻孔と口を震わせる。
 森も、谷も、山並みも、家々も、人びとも、野生の動物たちも、いつもとは違って、なんと謎めいた気配に包まれていることか。あした、きっと、新しい何かが起こることだろう。多くの鳥たちは飛ぶのを、獣たちは走るのを、ぱたりとやめるだろう。多くの生き物に死が訪れ、歌声と、跳躍と、飢えと、凍るような寒さに、終わりがくるだろう。一発の銃声。広がる翼、縮まる四肢。そのあとは無。
 いや、無ではない。一方には、獲物そのものばかりか、生前のそいつにまつわるすべてを−−自由、太陽、時空、嵐を−−奪う人間が存在する。そこで得たものは、当人はそうと気づかぬままに、やがては彼の力となってくれることだろう。日々の仕事にとりかかるとき、さらには年老いて、今度は自らが死を待つ番になったときに。p10-11(「猟の前夜」『雷鳥の森』)

 猟場は、ささやかなやまならしの林を流れる小川のほとりで、そう遠くはなかった。林のそばへ乗りつけると、リョーヴィンは馬車をおり、もう雪が溶けて、苔むした泥ぶかい空地の一隅へ、オブロンスキーを案内した。そして自分は、別の片すみにある二叉の白樺のそばへもどって、低い枯れ枝の叉へ銃を立てかけ、、長い上着(カフタン)を脱ぎ、帯を締めなおして、両手が自由に動くかどうかためしてみた。
 ふたりのあとをついて来た灰色の老犬ラスカは、主人と向かいあって用心ぶかくうずくまり、さっと、耳をそばだてた。太陽は大きな森の陰に沈みかけていた。そして、やまならしのあいだに点々としている白樺が、今にもはちきれそうな芽をつけた垂れ下がった枝を、夕映えの光の中にくっきりと描きだしていた。
 まだ雪の残っているこんもりとした森の中からは、曲りくねって細々と流れている水が、かすかな音をたてていた。小鳥たちはさえずりながら、時おり、木から木へ飛び移っていた。
 しんとした静けさの合間をぬって、凍てついた土が溶けたり、草が伸びたりするために、少しずつ動く去年の朽ち葉の、かさこそと鳴る音が聞こえた。
 《こりゃ、驚いた! 草が伸びるのが、耳に聞こえたり、目に見えたりするなんて!》リョーヴィンは若草の針のような芽のそばで、石筆色の湿ったやまならしの朽ち葉がぴくりと動いたのを見つけて、そうつぶやいた。彼は立ったまま耳を澄まして、足もとのじめじめと苔むした地面や、耳をそばだてているラスカや、目の前に低く山のふもとまで海のようにひろがっている冬枯れのあらわな森の梢や、ところどころ白い雲の条(すじ)をひいている夕暮れの空などを、かわるがわるながめるのだった。p333-334(「第二編15」『アンナ・カレーニナ』)

 《あいつらはあの下、家のそばの牧草地を横切っている。フランコは百メートル離されているが、ウサギのほうも息絶えだえだ。ほらやってくる。やってくる。山の斜面を上って、朝いた場所にやってくる》フランコは二度吠えた。合図と言わんばかりにただ二度だけ。そこでピエールはアルバを振り向いた。
 「さあ、器量よしの怠け者。さあ、勇敢なおまえ。あれを聞くんだ。助太刀に行け、走るんだ」
 アルバは脚を震わせながらも起きあがり、頭を振るや、よろよろとフランコの応援に出かけた。まもなくその元気のいい声が聞こえてきた。
…(中略)…
 森の奥でブナの葉を踏みしだく音が聞こえた。ピエーロはゆっくりと音のするほうへと向かった。ノウサギはそこにいて、うずくまったまま、じっと彼を見つめた。たいそう大きかった。口髭、口元、おまけに目にいたるまで、顔じゅう、白い泡に覆われていた。緑がかった白い泡。ウサギの喘ぎと激しい心臓の鼓動が目に見えるようだった。
 銃を構え、引き金を引いた。ウサギは微動だにしなかった。そこでもう一発撃った。ウサギは四肢をぴんと伸ばし、くずおれた。
 まずフランコがウサギに近寄った。そいつを口にくわえ、じっと匂いを嗅いでから、木立ちの間の草地に身を投げだし、ウサギと同じく死んだように動かなくなった。
 アルバがやってきた。獰猛にウサギに歯をたて、引き裂かんばかりだった。そこでピエーロの出番になった。銃を置き、ナイフを抜いた。アルバをウサギから手荒に引き離すと、こう言った。
 「あまえのものではない。おまえには資格がない」
 ピエーロはウサギを切り開いた。心臓と肝臓を取り出した。フランコの傍らに膝をつき、まだ生温かい心臓と肝臓を切って、切れ端を少しずつ口に入れてやった。頭を撫でてから、黙ってハンカチで犬の目を拭き、脚の血を拭った。胸の奥底から何かが、口ではうまく言えない何かが、人間に対してさえめったに抱くことのない想いが、こみあげてくるのを感じた。p126-128(「アルバとフランコ」『雷鳥の森』)


雷鳥の森 (大人の本棚)

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アンナ・カレーニナ(上) (新潮文庫)

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