『批評と臨床』


哲学史は知らない。愛についてもよくはわからない。潜勢力とは、存在することも存在しないこともできるということであり、そうした存在を、偶然的なものというらしい。メルヴィルの『バートルビー』は、その主人公の姿にキリストを重ねて見る人もいるくらい、たいへんに苦しい話なのだが、読んでいる自分までが消え入りそうになるそんな小説を読んで、まだ何かを進んで書こうという気になれるのは、それだけですごいことだと思ってしまうのに、加えて、顔を上げて、しかも前を向こうとする、ということはつまり、バートルビーという存在を否定の眼差しで裁き捨てるのではなく、その悲惨をさえまんまに受け入れて、なおその再生に向けて(そしてたぶんは「私たち」を立ち上げるべく?)あくまでも肯定的に読もうとするなんて、とうてい真似のできる姿勢ではない。
言語からも、貨幣からも、そして法律からも遠ざかり、何ものにも媒介されない世界に生きることをめざしている、とでもいうのか。壁に向きあい続けるバートルビー。自らもまた、あいだに入ることを拒み、どんどん縮んでいく男。食べずに生きていける存在とは、生きながら死んでいる、そして死にながら生きている幽霊である。彼には、それでも場所というものが残されているのだろうか。あるいはどんな時が残されるというのだろうか。窓とそのすぐ先の壁との隙間。驚くべき厚さの壁に周囲を取り巻かれた中庭。そこで芝生が育ったり、育たなかったり、あるいは鳥が運んできた草の種が石の割れ目から芽吹いたり、芽吹かなかったり。そして、それでいいのかもしれない。


批評と臨床

批評と臨床

決まり文句は、その標的となり、忌避の対象とされた事柄を廃絶するが、同時に、決まり文句によって保護されているかに見え、その実、実現不能になってしまった別の事柄も、廃絶する。実は、その二つの事柄が区別しがたいものにされてしまうのだ。決まり文句は、識別不可能性、不確実性の領域を抉り出し、その領域は好ましくない活動と好ましい活動のあいだで拡大しつづける。あらゆる基準は廃棄された。決まり文句は「書き写す」という行為も消滅させてしまうが、これは何かが好ましいかどうかを判断するための唯一の基準だったのだ。「何かを望むよりもむしろなにもなしですませたいのですが」。これは虚無の意志ではない。意志の虚無の増殖だ。バートルビーは生き残る権利を得た。すなわち、めくら壁を前にして立ち、身動きせずにいるという権利だ。ブランショなら、忍耐を要する純粋な受動性、とでも呼ぶだろう。存在として在り、しれ以上のものはなにひとつない。諾か否かを言うようにと迫られもするだろう。しかし、否(照らし合わせをすること、買い物をすることについて)と言ったり、諾(書き写すことについて)と言ったりすれば、すぐさま敗北してしまい、不必要とみなされ、生き残れない。照らし合わせの行為をせずにすますことを好み、それとともに、筆写を好むこともせずにすますのが生き残りの方法なのだ。p148-149(「バートルビー、または決まり文句」)

 プラグマティズムとは、群島と希望のこの二重の原則である。真実が可能となるには、人間の共同体はいかなるものであるべきか? 真実truthと信頼trust。プラグマティズムは、すでにメルヴィルがおこなったように、二つの前線で闘いを続行するだろう。すなわち、人間を人間に対立させ、癒しがたき不信感を養う特性に対する闘い。だが同時に、〈普遍〉ないし〈全体〉、つまり偉大な愛や慈悲の名のもとにおける魂の融合に対する闘いだ。しかしながら、特性にはもはやしがみつけぬなら、魂には何が残るのだろうか、そのときには、魂がひとつの全体へと融合するのを妨げるのは何なのだろうか? 魂にはまさにその「独創性」が残るのだが、それは個々の魂が言語の限界におけるリトルネロのごとくにもたらしてくる音、しかも魂がその肉体とともに道(あるいは海)を進みだすときにのみ、自らの救済を求めずに人生を送るとき、特別の目的なしに肉体ともどもその旅をはじめ、そして別の旅人に出会い、その旅人を音で認識するときにのみもたらしてくる音だ。ローレンスは、それこそが新たなメシア思想、アメリカ文学の民主的な寄与だと語っていた。救済や慈悲といったヨーロッパの道徳に抗する生の道徳であり、その道徳において魂は、他の目的もなく、ただ進み出すのでなければ自己達成をできないが、その際、あらゆる接触に身をさらし、他の魂を救おうなどとは決してせず、あまりにも権威的だったり、あまりにも悲しげだったりする音を出している魂からは身をそらし、断固としたところのない、束の間のものでさえある親和を対等の相手と形成し、自由以外の達成はなく、自己達成のためには自らを解放する用意をつねに整えているのである。メルヴィルあるいはローレンスのいう友愛、それは独創的な魂にかかわる事柄だ。もしかするとそれは父ないし神の死によってしか可能とならないのかもしれないが、それによって生じてくるわけはなく、まったく別の問題だ−−「無数の魂の繊細な共感、もっとも辛辣な憎しみからも、もっとも情熱的な愛情からも得られる共感」。p174-176(同上)