『バートルビー 偶然性について』


バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

つまるところ、ツァラトゥストラ永遠回帰は、ライプニッツの『弁神論』の無神論的な変種でしかない。それは、ピラミッドの一部屋一部屋のなかには起こったことの繰り返しだけをつねに見て、そのことによってのみ、現実の世界と可能世界のあいだの差異を抹消して世界に潜勢力を回復する。ニーチェの決定的な経験を、はじめて、それもほとんど同じ用語を用いて定式化したのがまさにライプニッツだということも偶然ではない。「人類が、現在ある状態に充分に長く持続すれば、個人の生までもが些末な細部に至るまで同じ状態であらためて起こるという瞬間が必ずや到来するだろう。私自身も、このハノーファーという名の都市にいて、ライネ河の河岸でブラウンシュヴァイクの歴史の研究に取り組み、同じ友人たちに同じ意味の手紙を書いているところだろう」。
 筆生バートルビーが、筆写を放棄することを決心する瞬間まで固執しているのがこの解決法である。ベンヤミンは、永遠回帰を居残りの罰課Strafe des Nachsitzens、怠慢な生徒に教師が課す、同じ文章を何度も筆写させる罰課に喩えたことがあるが、そのときベンヤミンは筆写と永遠回帰とのあいだにある内密の照応関係を発見している。(「永遠回帰とは、宇宙に投影された筆写である。人間は、自分のテクストを終わりなく反復して筆写しなければならない」。)かつてあったことの無限の反復は、存在しないことができるという潜勢力を完全に放棄している。その執拗な筆写にあっては、アリストテレスの偶然的なものにおけるのと同じように、「非の潜勢力という状態にあるものが何もなくなる」のだ。潜勢力への意志とは、じつは意志への意志であり、永遠に反復される現勢力であり、反復されることでのみ潜勢力を回復される現勢力なのだ。筆生が筆写をやめ、「筆写を放棄」しなければならないのはそのためである。p77-78

バートルビーは法の筆生law-copyist、つまり福音書的な意味での筆生であり、彼が筆写を放棄するということは〈法〉を放棄するということ、「手紙の古さ」を乗り越えるということでもある。ヨーゼフ・Kについてそうしたのと同様に、批評家たちはバートルビーをキリストの一形象と見なした(ドゥルーズは「一人の新しいキリスト」と言っている)。そのキリストは、古い〈法〉を廃棄して新しい令状を開始するべく到来するものである(皮肉にも、このことを喚起しているのは法律家自身である。「私はおまえたちに、互いに愛しあえという新たな法を与えよう」)。しかし、バートルビーが新しいメシアだとしても、彼は、イエスのようにかつて存在したものを贖うためにではなく、かつて存在しなかったものを救済するために到来するのだ。p82-83

 書くことを中断してしまうことは、第二の創造への移行をしるしづける。その創造にあって神は、自分に対して、自分が存在しないことができるという潜勢力を喚起し、潜勢力と非の潜勢力のあいだの区別のなくなった点から出発して創造をおこなう。そこで遂行される創造は、再創造でも永遠の反復でもない。むしろそれは一つの脱創造であり、そこでは、起こったことと起こらなかったことが、神の精神のうちで、もともとの単一性へと回復され、また、存在しないこともできたが存在したものは、存在することもできたが存在しなかったものと見分けがつかなくなる。(…中略…)その脱創造の教えとなる言葉は〈裁き〉ではない。〈裁き〉は、かつて存在したものを補償へ、あるいは永遠の罰へと割り当てる。脱創造の教えとなる言葉は〈輪廻的再生〉、全的な回復である。新たな被造物はそこで、「真となる、さもなければ真とならない」という、真偽を問うことの不可能な中心に到達する。生へと令状を宛てられつつ、死へと行き急ぐ手紙の旅は、ここで決定的に終わりを迎える。つまるところ、ここにおいてこそ被造物はわが家にあり、贖われないがゆえに救われてある。p84-86


どうやら「飛行機でそのうえを飛んで」しまったか。