『敬愛なるベートーヴェン』Copying Beethoven、2006年、イギリス・ハンガリー、アニエスカ・ホランド監督

神の声を聴くBeastと野獣の耳をよく知るBeauty。しかし世代の開きなのか、男女の差異なのか、それとも才能の多寡なのか(そのどれでもないような気もするけれど、とにかく)、彼らには容易には越えられない懸隔*1があって、それを皮一枚残したままの近接である。その薄いようで厚い壁をやすやすと通り抜けるかに描かれるのが、音楽である。魂と魂をつなぐ橋ということをベートーヴェンエド・ハリス)がいう場面がある。鳴り続けているようですでに止んでおり、もはや鳴ってはいないのに響き続けている音楽。そして彼ら自身が、楽曲におけるある種の音と音との関係のように、付かず離れず、互いに対して厳しいようで優しく、また脆弱なようで頑強なのである。芸術家が野獣らしさの極みをさらけ出すそのとき、神の声を聞き届けるものとしての自己を確信できるのは、音楽に直向きなアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)の前だからであり、美女がほとんど下女同様の振る舞いを余儀なくさせられながら、そのときこそ音楽を愛する者としての自身を確認できるのは、楽聖でもある野獣の前だからである。敬愛は、たんなる従順を意味しない。そこには自立が含まれている。

腸はとぐろを巻いて天に向かい
頭脳よりサエわたる
クソにまみれるから天国に行ける


ベートーヴェンがいう頭や心にではなく腹に宿る神っていうのが面白い。

*1:それは彼らの作る音楽と彼ら自身の生との間にあるズレと関係があるかもしれない、などと考えていて、映画を見終わったあとに思ったのは、ベートーヴェンにおいては、彼が音楽を作ることと彼自身の生を生きることとの間にほとんどズレがないのに対して、アンナ・ホルツという架空の人物においては、そのズレが解消されることなく、むしろ次第に大きくなっているのでは、ということ。そのことは、この映画では、ベートーヴェンがただの一度も回想をしないという形で示されている。つまり彼は、そのときそのときだけを生きている、いわば「今を生きる」人物として造形されているのに対して、アンナのほうは、最後のシーンを除いてこの映画全体が、彼女の回想でできているということ、そこにアンナ自身の音楽と彼女の生とのあいだにあるズレのようなもの(それは監督自身の映画制作と彼女自身の生との間にあるズレのいくらかの反映でもあるだろうか)を見ることができる。そして二人のこの差は、このあとも縮まりそうにない。もちろん、この距離こそが、「作ること」を可能にするのではある。彼女の「現在」に戻ることで、映画はちょうど楽曲の演奏のように終わる。そのあいだに私たちが見聞きしていたのは、彼女の「過去」だったのだろうか、それとも私たち自身の「未来」だったのだろうか。そして映画と私自身の「現在」とのズレ。そこにも否応なく目を向けさせられてしまうのだが。