四方田犬彦『翻訳と雑神』(人文書院、2007年)


詩集『Ambarvaria』の作者はその晩年、ギリシャ語と漢語の比較研究に没頭し、同僚や弟子を二十年以上にわたって悩ませ続けた。しかしそれは西脇順三郎の詩業と無関係な営為ではなかった。そこには「完全にして純粋な言語、永遠に到達不可能なユートピア言語」への夢が一貫してあったのである。
こう述べる四方田犬彦がたよるのは、ホセア・ヒラタの論である。ヒラタは「天気」を解釈するにあたり、微妙な細部である「戸口」という一語からはじめ、それがバベルの塔に関係していることを指摘し、西脇の詩をベンヤミン-デリダの問題文脈に導いていく。ヒラタがそこから新しく西脇の詩に切り込んでいくその視座を、四方田氏は「詩を書くことが翻訳と同義であるという認識」であると指摘する。そして次のように述べる(どこまでがヒラタ氏の見解なのかが不分明なのが気になるが、そして少し長いが、引用してみる)。

ヒラタの論を踏まえたうえで述べるならば、この「天気」という詩そのものが、翻訳をめぐる探究行為であり、その探究の結果としてもたらされた作品であると解釈される。「戸口にて」、「さゝやく」者たちは、バベルの塔の崩壊のあとを生きる者たちであり、その言葉は当然のことながら純粋状態から失墜して混乱し、互いに通じあうことができない。塔の破壊は宝石を覆したかのような出来ごとである。だが西脇は、こうした状況を逆に肯定的に読み替えてしまう。それは「神の生誕の日」でもあるのだ。純粋言語が解体し、人びとは互いに翻訳を通して意思疎通することを強いられるようになったが、翻訳行為の出現こそが神を誕生せしめることになった。ここには先に述べたデリダに代表される、ユダヤ教の厳粛にして矛盾に満ちた、怒れる老人の神からははるかに遠い、晴れやかにして初々しい神の表象がある。神とは翻訳の可能性であり、翻訳を通してポエジーが一瞬ごとに実現されてゆくことへの期待そのものである。完全言語が崩壊することによって、はじめて地上に詩が実現されることになった。「天気」という詩はまさにその事実の宣言にほかならない。そして、この詩が『Ambarvaria』の巻頭に置かれることによって、西脇は詩の根底には見えない形で翻訳行為が横たわっているということを告知してみせた。それがベンヤミンが「翻訳者の使命」を執筆した一九二三年からわずかに十年後の出来ごとであったことは、興味深い事実である。(「西脇順三郎と完全言語の夢」)p72-73

  • Hosea Hirata, The Poetry and Poetics of Nishiwaki Junzaburo: Modernism in Translation(Princeton University Press, 1993). 

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翻訳と雑神

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