目覚めさせないもの、させるもの


先日、家人が借りてきたDVDで映画『エターナル・サンシャイン』を観た。記憶と恋愛を扱った佳編で*1、でもまさか、そのせいだとは思えないのだが、子供の頃に優しくしてくれた伯母が夢に出てきた。大きなモーターボートの模型も。それは彼女の連れあいが作ってくれたもので、彼らはよく私を外に連れ出してくれた。プールにも一緒に行った。モーターボートを手放せない私はしっかりそれを脇に抱えてもっていった。そして自慢気に子供用のプールに浮かべてみせたものだ。水中眼鏡のゴムはこめかみに食い込んで痛いほどなのに、どこからか水が入り込んでくる。ゆらゆらと視界を下からふさいでくる水をうっかり鼻から吸い込んでしまうと、額の裏側のほうへ辛いようなしびれが走る。この足ヒレを買ってくれたのも伯母たちだったかも知れない。彼女たちはまた、鹿のいる公園や馬に乗れる遊園地なんかにも連れ出してくれたし、ピクニックというものがどういうものであるかを教えてくれたりもした。木陰の下に敷いたシートの上で、バスケットに入ったサンドイッチやおにぎりを食べたり、魔法瓶から熱いお茶を注いで飲んだり。伯母たち二人は、夫婦になっても長い間子供が生まれなかったので、僕はよく彼らのデートやドライブのマスコットにしてもらえたのだろう。だろうようなことを夢のなかで見ていた気がするのだが、待てよ、たしかこの伯母には、ここに書くのはちょっと憚られるようなことまでお世話になったことがあって、ことがあって、あれなのだが、あれ、とそんなことまで思い出しそうになって、実は私にはそのような伯母はいないということに気がついて、あっと目が覚めた。これはむしろ『精神分析と現実界』(立木康介)を読んだせいなのかもしれない。という夢を見たのだったか、あるいは。

*1:消去と反復があって、その消去こそが二度目のような気がしたが、いずれにせよ自由選択というか、選び直しがある。彼らに二度目の出会いがありえたのは、運命的な結びつきが彼らにあったからだろうか。それよりは彼の記憶が完全に消されてなかったからではないか。それが微かにでもあったからこその反復。しかし二度目といってもまったく同じことのくり返しではありえない。記憶から切り取りたい部分だけを器用に切除するなんてことはたぶんできはしない。そんなふうにあったことをなかったことにすることなんてできないのだ。仮にある人物のある特定の記憶だけを切り取ることが可能だとしても、他のだれかがそれに絡んだ記憶を保持しているかぎり。覚えていること、思い出すこと。そして記憶は過去のものであっても、その記憶を生きているのは現在なのだ。だからここで反復されているように見えるのは、たんに過去の自分に戻るとかそういうことではなく、嫌なことも含めたすべての過去を抱えつつ、決して平和や安全が約束されることのない未来に向かって、現在の自己をそのつど生き直しているというそのこと。そういうことをしかしふだん私たちもごくふつうにやってるね。初めてのドアを開けるときとか。そういわれてる気がした。その青年ぶりも相当なものだったけど、プロポーションは大人のそのまま、サイズのみを小さく縮めただけの姿で、見事に大人の監視下にある子供を演じきってしまうジム・キャリーはさすが。そして彼が子供のはずなのに、実際の子供たちと一緒に映る場面では大人のサイズに戻っていたりするのもまた面白かった。