『クィーン』THE QUEEN(2006年、英・仏・伊、スティーヴン・フリアーズ監督)

ダイアナが亡くなるシーンも、大鹿が撃たれる映像もない。女王が立派な角をもった牡鹿と再会するのは、すでに首(王室?)が逆さに吊られた胴体(民衆・民意?)から切り離された後である。ブレアに忠告された女王が一人で決断に苦しむシーンもない。彼女がなだめているのは皇太后ではなく、むしろすでに意を決した自身なのだし、猟に夢中の夫君フィリップ殿下にはすでに下した決定を告げるだけだ。女王と首相をつなぐ電話以上に、画面に頻出するのは新聞(記事)やTV(画像)であり、それら媒体(媒介するもの)こそが真の主人公であるかのように、人々だけにではなく女王にさえ強く影響を与えるものとして描かれている。予測はできない、だから事後を生きねばならない。にもかかわらず、後からでもできることがある、そう映画は言おうとしているかに見える。
そこで問題になるのは、女王や王室が彼ら自身の存続のために何をするかではなく、私たちが私たちのために何をどうするかであろう。ブレアが遅ればせながらも変化に対応しようとする女王を擁護したのは、眼前に出来している事態が自分たち自身の問題であることを自覚せずに、女王のせいだ王室はKYだと批判することで欺瞞的に感情処理をして事足りるとしかねない人々*1に対する怒りからであろう。ダイアナを殺したのも、どこかの国のプリンセスを傷つけているのも私たち以外にはない。直接性も、主体としてのこの私も、洞察する第三者も、到底ありえそうにない現代の社会を生きる私たちの生が、偶然を必然として、事後を生きねばならない生だとして、さてそれを生き抜くことに本当に寄与しているのだろうか、私たちが選んでいるこの世襲制度は。

*1:もちろん私自身その一人でないわけではないんです、はい。でも社会における特別な役割を世襲する「生まれつき高貴な人」を制度的に認めておいて(ということは、「生まれつき卑賤な人」もまたつくってしまうことになるのですが)、そういう人たちだけに自分たちの社会の厄介な問題を押しつけるやり方っていうのも、どうなんでしょうね。それって共同体の知恵なんでしょうか。それとも後からでもできる、やめたほうがいいことなんでしょうか。余儀なくされる偶然を生き抜く力を、私たちがこの手で(しかしほとんどは無自覚なまま)必然を与えて、それを生きざるをえなくさせている当のその人たちから、本当にチカラをもらえるんでしょうか。もらえるとしても、ずっとそういう役割を固定的に押しつけていていいのでしょうか。自分で選ぶことのない生や社会において、たとえば責任なんていう考えは、でてきそうにありませんし。『エリザベス1世』で描かれていたのは、女王が結婚できるのは欧州諸国の王族とだけで、貴族でさえ婚姻の対象とはしない世の中でしたが、現代では、生まれつきがそうでない人が、途中からそういう普通じゃない人(の一族)にならねばならない場合を考えると、精神的にもかなりキツそうです。病気になっても全然おかしくない。むしろそれがフツーでしょう。その誰かをかわいそうに思うだけで(結局は他人事で)すますのじゃなくて、やっぱり制度を別のものにするべきなのかな?などなど、考えてしまいました。