『グエムル―漢江の怪物』

劇場公開時に見逃していた映画。毒の効いたコメディ。麗らかに晴れた昼下がりの川縁、のんびりとした出だしからまもなく、怪物が現れ、あっさりとその全容をさらけだしたのには驚いたが、やがて漢江の濁流は降りしきる雨を招き、かすかに届けられた声は地下の下水溝へと家族たちを導いていく。そして濡れる、浸る、漬かる。気持ちの悪い水の感じの出し方は相変わらずうまい。水は方円の器に随うという。しかし民衆はそうでも、個々の民はそうでもないのかもしれない。見下げ果てた男が、しかし決して見捨てない男であること。この男には、あくまでも生きることを肯定しようとする身体があり、その情動には、生命を脅かすものへの抵抗の基盤がある。ポン・ジュノ監督はしかし、社会的弱者に寄り添い、彼らを温かく見守る、というだけの位置には収まっていない。権力に対する攻撃や揶揄だけでなく、そうした力を支えているはずの〈弱さ〉に対する突き放し方も半端じゃないのだ。
愛憎相半ばするという言葉があるが、ここでは人間たちの憎しみは、言葉や表情としてはまず映らない。人々の憎しみのほとんどは、身体に纏いつくような雨、濁った河のうねり、デモ隊や米軍のニュース映像等々に、そして何より怪物(の姿とその動き/ずるりとぶら下がって垂れ落ちたり、橋をまるで雲梯を渡るように移動したり、自分のヌメリで滑ってみせたり!)に、置き換えられてしまっているのだろうか。それにしてもそれらのイメージには、人間たちがその愛しみにおいて見せるような熱さはない。そして映画は、愚かな人間(たち)を骨まで愛するなら(愛するというのは、たぶんそんなふうにしかありえないのだし、そうだとすれば)、その弱さや愚かさに対して、またそれらがもたらすものに対して、(ソン・ガンホ演じる男の身体が麻酔から自由であったように、そして彼がその場で手にすることができるモノや道具をその都度武器にして抗い戦ったように)徹底的に醒めているしかないだろう、とでも言っているようだ。
英題『The Host』、2006年、韓、Bong Joon-ho監督作品。