『エレファント』

いい加減な自分の記憶が気になったので再見。フォーカスが微妙で、たいていは行動している人物だけに焦点が合っていて、背景は大きくボケているのだが、他の人物との出会いや行動を共にする場面ではフォーカスのシャロウさはやや弛むし、急にストップモーションに変わるのと同じくらいの頻度で(だから稀にだけど)パンフォーカスになっていることもある。幾つかの視点からそんなふうに撮られたやや長目のカットがつなげられ、見え方の異なる空間が、しかしそこにいる人物たちが過ごした同じ時間であったことがわかるのだが、画面の奥や手前に向かって移動することが多い人物たちの動きにもかかわらず、今度もわたしは見ていて、ひたすら表面を漂っているかのような浮遊感、奥行きのなさを感じた。ピアノのある少年の部屋の中をぐるぐる回るカメラ。校舎内はとくに閉塞の感じが強く、前に見たときもそうだったと思うが、やはりベニーが登場すると一段と緊張感が高まる。
ショットのつながりは、複数の視点の結合よりは、同時刻の反復による時間の重層化を強調している、というか、それによって時間というものが本来は分離されてあるものなのだということを、浮かびあがらせているのかもしれない。『明日、君がいない』が複数の視点によるショットを空間的につなげているだけのような印象が強いのは、人物のセリフが画面を説明し、画面がセリフを説明するというように、人物の行動の背景を説明しすぎているせいか。その意味では視点は人物たちのつながりを、声は彼らの隔たりを強調していたのかもしれない。TVに映る画像が、言葉による説明以上に(因果的ではない)効果をもっているのは『ラストデイズ』も同じ。そうか、因果律に対する態度の違いか、と気がついて、以前に読んだ以下の文章を思い出した。

上のエントリでのコメント欄でふれられているベニーだが、彼が認識者であるかどうかは別として、わたしは、彼こそが曲線的に侵入した「現在」であって、「現在」を奪われ直線に閉ざされている認識者たちを「現在」へ向けてその扉を開ける可能性そのものであったような気がしている。[加筆改稿]

  • ラストデイズ』→主人公が川辺で顔を洗うときに両手で掬ったときの?水音が随所に聞こえていた。重ね合わせられた時間が、同じ位置からのショットを含んで、しかしセリフが足されていたシーンがあったような。要再見。