『リベラル・ユートピアという希望』

主観と客観とのあいだにある現象というヴェール。しかし言語は、そのような私たち(の感覚器官あるいは精神)と実在(事物がそれ自体であるあり方)とのあいだにある障壁ではない、と著者はいう。

現象のヴェールにかんする十七世紀の議論に対するプラグマティストの答えは、視覚を知識のモデルにする必要はないということである。それゆえ、感覚器官もしくは観念が心の眼と対象とのあいだに介在すると考える必要もない。そうではなく、われわれは器官と観念の両方を対象操作のための道具と考えることができる、とプラグマティストは言う。言語の歪曲的効果にかんする十九世紀の議論に対するプラグマティストの答えは、言葉は表象の媒体ではないということである。言葉とはむしろ符号と音声のやり取りであって、そのやり取りは特定の目的を成し遂げるためになされるものなのである。言葉が正確な表象に失敗するということはありえない。というのも、言葉はおよそ表象するということがないからである。/感覚知覚や思考や言語を記述するにあたって、プラグマティストは非視覚的な、非表象的なやり方を力説する。なぜなら、プラグマティストは、物を知ることと使うこととの区別を打破したいからである。p119-120


現象/実在の区別を、記述の相対的有用性の区別に置き換えたように、反本質主義者は、客観的/主観的の区別を合意獲得の相対的難易度の区別に置き換えてしまう。

価値が事実より主観的だというのは、どの事物が醜いのかとか、どの行為が邪悪なのかとかについてのほうが、どの事物が長方形なのかについてより、合意を得るのが難しいからにすぎない。ある角度からある光のもとで見ると黄色に見えるとしてもXは本当は青なのだということは、「Xは青である」という文は「Xは黄色である」という文よりも有用である。つまり、より頻繁に用いることができる、ということである。後者の文は、時たまの一過的な目的のためにのみ有益なのである。p121


正確さについて。

道具と道具が操作するものとの関係は単純に、特定の目的のための有用性の問題であって、「対応」の問題ではない。胃洗浄機が聴診器より人間本性に近いということも、電圧計がねじ回しより電気器具の本質に近いということも、まったくない。知ることと使うことのあいだには違いがあり、他のあらゆる目的から区別された「真理を知ること」と呼ばれる目的があると、アリストテレスとともに信じるのでなければ、Aのある記述が別の記述より無条件に「より正確」であるとは考えられないであろう。というのも、正確さにおいて問題となるのは、有用性においてと同じく、ある対象と他の対象との関係を調節することであり、利益をもたらす文脈のうちに対象を置くことだからである。p144