『ラストデイズ』

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再見。名前がブレイクで、森を彷徨うと来て、一緒についてまわるのがノーバディ(だれもいない)だったら、ジャームッシュの『デッドマン』の隣りに並べてみてもいい映画なのかもしれない。けど殺し屋はいない。じゃあ彼は誰に追われているのか。自分自身に? ブレイクは眠りなき夢、笑いなき戯れ、踊りなき歌のいまここから、裸の生命力へ、認識の森から存在が再来する川へ、裁きから再生へと飛躍することができたのだろうか。
やっぱりあった。ブレイクが「Death to Birth」を歌う直前の場面。スタジオとして使っている部屋でスコットがブレイクに歌詞の相談をしているところにルーク(ルーカス)がやってきて、「彼を1人にしてやれ、2階へ行こう」とスコットの耳元で小さくささやき、ルークに続いてスコットが部屋を出て行くまでのシーンだ。数分前に挟まれている同じシーンでは、ルークのささやきに字幕は出ないのだが、でもこれは別時間のことだとは考えにくい。日本語字幕は、ふたつの場面を別のものとして訳し分けている。スコットが「また一方的にしゃべったみたいだ」と謝るセリフは、最初のシーンでは「ごめん一方的にしゃべりすぎたよ」だった。ラリっている男のぼそぼそ英語は聞き取りにくく、「また」にあたる言葉を言ってるのかどうかわからない(このDVD、英語の字幕出せないし)。しかし床に投げ出されたスティックやギターの位置は同じだし、このあと2階に上がった男たちが(「デモはもういい」といって)絡むシーンでは、下の階からギターの前奏やそれに続くブレイクの歌声が聞こえている。というように部屋の状態や人物の動き、前後のつながりから考えると、やっぱりどうも同じ時間のようなのだ。
本作では『エレファント』のときよりは視点ショット(主観ショット)の割合が少なく、時間の重ね合わせも、基本的には客観的カメラによるものだが、時間の流れが一定せず、錯綜したり重複したりするので、客観カメラの「全知」感はかなり相対化されている。しかもたとえば上の場面では、カメラは同じ位置に固定されているものの、収められる時間の幅が広げられ、重なるはずの時空にもズレが持ちこまれている。じっさい二度目の場面には、相談の前振りのおしゃべりやスコットがブレイクに近づこうと座ったままソファを引きずるシーンが含まれていて、そのためにソファの底部にまくれあがった絨毯の端が映っている。最初のシーンにはソファの移動も絨毯のまくれあがりもないし(ソファはすでに寄った位置にあるのに、である)、歌詞の相談という用件らしい用件にやっと入ったところでルークに中断されるあたりのスコットのセリフも微妙に違っていて、ルークは最初のシーンではマイクスタンドのドラムセット寄り(向かって右)を通って戻るのに対して、二度目では反対側(向かって左)を通って戻っているのである。
スコットの足のもつれ具合も違っているが、それよりも部屋に残されることになるブレイクの「(デモを)聴いとくよ」というスコットへの返事(これはしかし、セールスマンとの対話以上の「応答」ではないか?)さえ加えられているのだ。最初に見たときには、同じシーンなのにセリフが増えてるかな?くらいの印象であったが、もう一度見てみるとけっこう大きな違いがあったことがわかったのだが、さて、これはいったいどういうことなのだろう。どうやら行為者としての過去の行動を一切の事後性を排して忠実に再現すること(反復の正確さ)がめざされているわけでもなさそうで、だとすればすでに結果が明らかになっている認識者の行動に対する事後的な視点からの原因の捏造がわざわざ演じられ、それが嗤われているのだろうか。些かも変質のない再現や反復などありえない。生は一回きりのものである。認識者の透徹した眼には、潜在するものさえが映じているのだろうか。いったいどちらが実際に起こったことなのか。いずれにせよ、同じ時空における出来事の別様の再現/反復は、存在しなかったものを、起こらなかったことを、すなわち世界の潜在性を浮かびあがらせる。わたしたちはブレイクとともに、コトの真偽を問うことの不可能な(しかしそれがひょっとして再生の?)地点に立ちあっているのかもしれない。
[追記]もしも表現というものが、その結果を含むプロセスを通じて、自分が何を表現したかったのかを知る行為でもあるのだとすれば、上の文章でわたしが表現したかったことは、出来事の唯一性を際立たせようと意図していることがもっとはっきりわかるように、さらに幾通りかの異なった再現/反復があってほしかった、ということだろうし(作り手は差異には気づいているはずで、注意しろなのか無視しろなのか、見る側がその違いに気づいてみても、どうも宙ぶらりんにされたようで、まあそれこそが狙いなのかもしれないが)、最期に横たわったブレイクの身体からもう1人の裸の彼が抜けだして梯子を登っていくシーンを無視したかった、ということだろう。あのシーンのせいで(それがいくら窓越しに見られたものとして映されているにしても)、ウィリアム・ブレイクのウィリアムがとれても、そして生け贄の羊の話をするモルモン教徒のツウィンズはスルーできても、ポオの「ウィリアム・ウィルソン」的な苦悩からやはり自由ではなかったということになってしまわないか。自身との距離の取り方。まことに自分を見るということは、難しい(これは、ほとんどわたし自身のことを言ってるのであるが)。