『ボンボン』El Perro(英題『Bombón: El Perro』、2004年、アルゼンチン、カルロス・ソリン監督)

勤め先を突然解雇された初老の男ビジェガスはひょんなことから大きな白いドゴ犬ボンボンを飼うことになる。人々との出会いの数々、仮住まいと移動が続く浮浪の生活をともにすることで、ビジェガスとボンボンは次第に深い絆で結ばれていく。犬や猫と暮らすというのも、畳長性を付与するということなのだろう。主演のフアン・ビジェガス*1をはじめ多くが演技経験のない役者たちらしいが、彼らのぜんぜん演技っぽくない身ぶりや表情、発声やその抑揚、間の取り方は、逆にカメラの動きやフィルムのつなぎのほうに意識を向けさせる。この映画、一見ドキュメンタリーふうなのだがけっしてそうではない。劇的効果をむしろ排除する意図をもってしっかり拵えられた劇映画である。パタゴニアの荒涼とした自然が背景なのに(だから?)何ともしみじみほんわかな映画でした。


ボンボン [DVD]

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*1:彼の、どうかすると小悪人にも見えてしまいかねないほどの、朴で訥な、円らな瞳。これにだまされてはいけない。映画です、あくまでも劇映画です。ハンドルを握る男と男の視線の先にある寥々たる自然とのあいだには、砂塵がつくる細かい疵のせいか磨り硝子のように曇ったフロントグラスがある。それはガソリンスタンドの女店員がいくら汚れを洗い落としてもいっこうにクリアにはならないのだ。

山内志朗『〈畳長さ〉が大切です』(岩波書店、2007年)

誤謬の自己訂正や安全性・安定性に寄与するものとしての冗長畳長性から、偏差や新しさが認識できるようになる可能性の条件としての畳長性、そして生物の多様性の基体としての畳長性まで。主に情報理論で扱われるその範囲をコミュニケーション論から存在論や生命論にまで拡げて論じている。畳長性の視点から偶有性を再考しているところ、キリスト教の「受肉」を畳長性として、あるいは生命現象における多重のフィードフォワードとフィードバックから織りなされる制御系を畳長系としてとらえてみせるところなど、たいへん面白く読んだ。


〈畳長さ〉が大切です (双書 哲学塾)

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『エリザベス1世〜愛と陰謀の王宮〜』(2005年、米・英、TVM)

イギリスでテレビドラマとして放映された作品で前編・後編の2枚組です。日本では2006年にNHK(BS-Hi)で放映されたようです。ヴァージン・クィーンである自身の大きな振幅のある愛憎と隣国の脅威や取り巻きの陰謀に悩まされた生涯を史実に忠実に描いているようです。権力者として聡明で男勝りの女王でありかつ自分の感情を制御しきれない弱い一面をもつひとりの女性でもある彼女の葛藤を、近代的な自我をもった個人のそれとしてヘレン・ミレンが達者に演じています。先頃やはり彼女が主演した『クィーン』のほうも見てみたくなりました。

エリザベス1世 [DVD]

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この秋にある番組の録画を見たことをふと思い出した

それは、2003年にNHKETV特集で放送された番組『プリーモ・レーヴィへの旅〜アウシュビッツ証言者はなぜ自殺したか〜』で、家人が同僚に借りてきたというヴィデオ(のちにBSハイビジョンで再放送したのを録画したもの)である。そのときに『アウシュヴィッツは終わらない』も再読したのだった。案内人である徐京植(ソ・キョンシク)の本『プリーモ・レーヴィへの旅』のほうは、ずっと前に、同僚のKさんから借りて読んだきりだったのだが、この番組では、徐京植への返信にあったルチア・レーヴィ夫人の彼の立場を思いやって書かれたことば(何にも勝る喜びを覚えましたのは、夫プリーモが残した作品によって、あなた様の人生、ご家族の苦しみと悲しみを少しでも癒し、生きる励ましになったことです)、プリーモがパルチザン活動をしていたときに聞いたはずのスイス国境近くの山岳地帯の渓(アオスタ渓谷)を流れるポー川支流(ドーラ川)の水音が、印象に残った。その川のさざめきを聞きながら、徐氏は「金」(『周期律』所収)という文章にある次のような話を紹介していた。プリーモ・レーヴィが囚われの身になってアオスタの兵舎に収監されていたときに知り合った男から聞いた話。ドーラ川からは僅かだが砂金がでる。半月の夜に川にある幾つかのポイントで川底を掘ると砂金が採れる。そうやって秘密の場所を代々に伝えながら、誰にも従属せず、自由に生きている一族がいる。自分ももし生き延びることができたら、そんなふうに自由に生きてみたい。

『クロッシング・ザ・ブリッジ 〜サウンド・オブ・イスタンブール〜』

クロッシングには、航海や横断という意味以外に、反対や妨害といった意味もあったはず。古今を、また東西を、橋渡しする交差と衝突の都市イスタンブールの音楽シーンを取材したドキュメンタリー。ドイツの前衛バンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのギタリスト/ベイシストであり、本作の音楽を担当してもいるアレキサンダー・ハッケが、音楽のジャンルも、演奏のスタイルや場所も、様々に異なるミュージシャンたちを、自宅に、スタジオに、パブに、ライヴハウスに訪ね歩くというスタイルで、インタヴューし、演奏を録音し、ときに共演までしてみせる。トルコでクルド語の歌を歌うことの困難と重要性を訴えるアイヌールの歌唱の力、エジプトやヨーロッパの技法を取り入れてトルコの伝統音楽にないものにしたというオルハン・ゲンジュバイの奏でるサズ、そしてストリート・ミュージシャンであるシヤシヤベンドのメンバーのひとりが口にした言葉「路上の石の記憶を歌にしたい。たかが石ころかもしれないが、石には石の記憶があるはずだ。」が印象的。
記録媒体を介した再生であれ、生演奏であれ、市場における商品というかたちで流通しているのは、音楽のごく一部に過ぎず、その提供や受容の形態は様々であり、音楽のチカラを伝えているのはもちろん商品だけではなくて、その橋渡しにはミュージックそのものだけでなくそれを構成する種々のサウンドもまた大きく関わっているのだろう。もちろん音楽を取り巻く環境は人工的なものでもあって、それもまた地理的なあるいは歴史的な条件と同様に、自分たちで制御しきれるようなものでもないのだけれど、そのことをあんまり悲観しなくてもいいのかもしれなくて、というのは、橋は架かることがけっこう多かったりするし、架かっているかどうかよりも、大切なのは、とにかくじっさいに自分の足で渡ってみること、そうしてはじめて橋は消費が追いつかない次元で渡されることになるのだろうなと、そんなことを思ったり。
何がさて私は幸福だったのだ、そうだろうか、いや、そんなふうに簡単にはいいきれそうにない、ととりあえず言葉をつないでみる。気になっていること、書き残していること、そう、よくできた商品ということから書きついでみよう。たしかに、それが商品であっても、そのことでもって商品という枠の外に出てしまうという事態がありうる。しかしそれは、商品のうちに計算された外部があらかじめ組み込まれている(という原因のためにそのように結果する)こととは異なる。上手に作られた商品には、私たちの消費を少しだけはみ出すようなものがほどよく組み込まれていて、それに対してほとんど身体的に反応しているだけで、言葉ではとらえられないような自然や生命のチカラに、あるいは世界そのものに、直接触れることができたような気持ちにさせられて、それで満足してしまっている、ということもないわけではない。しかしこの映画を見て感じていたのは、そういうことともちょっと違ってた気がする。
街そのものがそうであるように、音楽においても新旧の交替があり、南北の、また東西の交流がある。イスタンブールという都市を視座に据えたともいえそうなこの映画の視線には、古いものを愛していたいというようなあからさまに懐旧的なものはないし、すべては商品化の波に呑みこまれていくしかないという沈んだ諦念があるわけでもない。むしろどんな環境においてであれ、環境自体がボスポラス海峡の流れのようにつねに変化していくなかで、人間も人間がつくる音楽も変わっていく、その変容に寄り添いながら、資本主義を成立させる土壌をしっかりもったイスタンブールという都市が、それと同時にその資本主義が覆いきることのできないもの、そこから逃れゆくものを、生み出してもいるのだということを、まるで生き物が運動している姿をとらえるように映像にしてみせる。そこに私が見ていたものは、ひょっとして、登場するたくさんの、それぞれ異質に見えもするミュージシャンたちに、しかし共通している何ものかだったのかもしれない。音楽への情熱というよりは、音楽を生きざるをえない互いに対する応じ合いであり、また音楽の歴史に対する呼応とでもいうべきもののような、何か。
音楽は基本的に遊戯的であり偶然的なものであって、反復があってもそれからの逸脱もある。ジャンルも演奏形態も音楽的経験もそれぞれに異なりながら、彼らには互いのあいだで共鳴している何かがあり、逆説的に彼らの個別性を保障しているようなその共鳴のうちに、私たちは、それぞれに異質であるものの遭遇、遭遇という偶然がひとつの必然として織り込まれていく様を、異なった音楽のあれこれの並べられにおいて聴きとり、愉しんでいるのかもしれない。それとも、歴史における大きな輪廻というか、永遠回帰のようなものを予感しているのだろうか。あるいはあるいは、私たちはそれぞれの私においてたんに狂気しているにすぎないのか、丸善に積みあげられた画集でできた城の頂きに据えられた檸檬のように、他人の想像力の中で爆発しているだけなのだろうか。せっかくの偶然性を自己の同一性へと同化し内面化することで終わるしかないのだとすれば。いや、それこそがいまそこにいるお前の偶然性なんだよ、と言ってくれる人がいるだろうか? たとえば音楽に異なる音楽や言葉をかぶせるように、単層としてのそれではなく、歴史の重層としての現在に気づかせてくれるべく。
これだけはいえそうなのは、あたりまえのようだけれど、この作品は、映像のために音楽が添えられている映画ではなく、音楽のチカラを伝えるための(人々と街の記憶の、演奏と演奏の記録の、海峡と海峡に渡された橋の)映像になっているということ。時間というものの存在、時間の流れというものを否応なく感じさせ、同時に歴史とともに変化し続けている音楽というものの目には見えないはずの姿を、その動態を浮かび上がらせもする映像がここにあって、それがこの商品を商品の外へと開く大きな窓になっている。この窓の前に立つ者は、商品を通じて商品の外に気づかされるという皮肉についても、それを気に病んでみせるポーズしかとれないのだとしたら、音楽や映画だけでなく、ありとあらゆるものを商品化していく資本主義の流れに対する抵抗としては、どんな有効性ももたないことにも気づかされるだろう。
商品というものはやはり、消費されてこそのものであろう。需要があって、つまりは買われてはじめて付加価値というようなものもまたありうるのである。だからこそ、作り手があらかじめ計算した消費の範囲を超えたかたちで受容されるものは、やっぱりおもしろい作品ということになりそうである。しかしまたこの映画には、たとえば映像をつくり提供する条件や環境が変わっていけば、現在の、たとえばイスタンブールにおける音楽事情が実際そうである以上に、商品の外にでてしまう部分をもった映像もまた現れ(それにしたところで、やはり商品化されてしまうとしても、たんなる消費としてではなく)それらが受容されるようになっていく可能性、そういう一面についても、教えられた気がする。
http://www.alcine-terran.com/crossingthebridge/
『CROSSING THE BRIDGE: THE SOUND OF ISTANBUL』、2005年、ドイツ・トルコ、ファティ・アキン監督作品。

プラットフォーム小景

恋人たちの片方が別れ際にそっと手をあげる。ためらいがちにもう片方がそれに応える。扉がスライドして、隔てられた二人はしばらくは微塵も動かない。やがて滑り出す列車。そしてもう一度、もう堪えきれないとでもいうように、いや、もうここまできたらいいかな、のようにも見える手をあげる彼。それに応えて今度は小さく手をふる彼女。JR大阪駅3番線の。