『クロッシング・ザ・ブリッジ 〜サウンド・オブ・イスタンブール〜』

クロッシングには、航海や横断という意味以外に、反対や妨害といった意味もあったはず。古今を、また東西を、橋渡しする交差と衝突の都市イスタンブールの音楽シーンを取材したドキュメンタリー。ドイツの前衛バンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのギタリスト/ベイシストであり、本作の音楽を担当してもいるアレキサンダー・ハッケが、音楽のジャンルも、演奏のスタイルや場所も、様々に異なるミュージシャンたちを、自宅に、スタジオに、パブに、ライヴハウスに訪ね歩くというスタイルで、インタヴューし、演奏を録音し、ときに共演までしてみせる。トルコでクルド語の歌を歌うことの困難と重要性を訴えるアイヌールの歌唱の力、エジプトやヨーロッパの技法を取り入れてトルコの伝統音楽にないものにしたというオルハン・ゲンジュバイの奏でるサズ、そしてストリート・ミュージシャンであるシヤシヤベンドのメンバーのひとりが口にした言葉「路上の石の記憶を歌にしたい。たかが石ころかもしれないが、石には石の記憶があるはずだ。」が印象的。
記録媒体を介した再生であれ、生演奏であれ、市場における商品というかたちで流通しているのは、音楽のごく一部に過ぎず、その提供や受容の形態は様々であり、音楽のチカラを伝えているのはもちろん商品だけではなくて、その橋渡しにはミュージックそのものだけでなくそれを構成する種々のサウンドもまた大きく関わっているのだろう。もちろん音楽を取り巻く環境は人工的なものでもあって、それもまた地理的なあるいは歴史的な条件と同様に、自分たちで制御しきれるようなものでもないのだけれど、そのことをあんまり悲観しなくてもいいのかもしれなくて、というのは、橋は架かることがけっこう多かったりするし、架かっているかどうかよりも、大切なのは、とにかくじっさいに自分の足で渡ってみること、そうしてはじめて橋は消費が追いつかない次元で渡されることになるのだろうなと、そんなことを思ったり。
何がさて私は幸福だったのだ、そうだろうか、いや、そんなふうに簡単にはいいきれそうにない、ととりあえず言葉をつないでみる。気になっていること、書き残していること、そう、よくできた商品ということから書きついでみよう。たしかに、それが商品であっても、そのことでもって商品という枠の外に出てしまうという事態がありうる。しかしそれは、商品のうちに計算された外部があらかじめ組み込まれている(という原因のためにそのように結果する)こととは異なる。上手に作られた商品には、私たちの消費を少しだけはみ出すようなものがほどよく組み込まれていて、それに対してほとんど身体的に反応しているだけで、言葉ではとらえられないような自然や生命のチカラに、あるいは世界そのものに、直接触れることができたような気持ちにさせられて、それで満足してしまっている、ということもないわけではない。しかしこの映画を見て感じていたのは、そういうことともちょっと違ってた気がする。
街そのものがそうであるように、音楽においても新旧の交替があり、南北の、また東西の交流がある。イスタンブールという都市を視座に据えたともいえそうなこの映画の視線には、古いものを愛していたいというようなあからさまに懐旧的なものはないし、すべては商品化の波に呑みこまれていくしかないという沈んだ諦念があるわけでもない。むしろどんな環境においてであれ、環境自体がボスポラス海峡の流れのようにつねに変化していくなかで、人間も人間がつくる音楽も変わっていく、その変容に寄り添いながら、資本主義を成立させる土壌をしっかりもったイスタンブールという都市が、それと同時にその資本主義が覆いきることのできないもの、そこから逃れゆくものを、生み出してもいるのだということを、まるで生き物が運動している姿をとらえるように映像にしてみせる。そこに私が見ていたものは、ひょっとして、登場するたくさんの、それぞれ異質に見えもするミュージシャンたちに、しかし共通している何ものかだったのかもしれない。音楽への情熱というよりは、音楽を生きざるをえない互いに対する応じ合いであり、また音楽の歴史に対する呼応とでもいうべきもののような、何か。
音楽は基本的に遊戯的であり偶然的なものであって、反復があってもそれからの逸脱もある。ジャンルも演奏形態も音楽的経験もそれぞれに異なりながら、彼らには互いのあいだで共鳴している何かがあり、逆説的に彼らの個別性を保障しているようなその共鳴のうちに、私たちは、それぞれに異質であるものの遭遇、遭遇という偶然がひとつの必然として織り込まれていく様を、異なった音楽のあれこれの並べられにおいて聴きとり、愉しんでいるのかもしれない。それとも、歴史における大きな輪廻というか、永遠回帰のようなものを予感しているのだろうか。あるいはあるいは、私たちはそれぞれの私においてたんに狂気しているにすぎないのか、丸善に積みあげられた画集でできた城の頂きに据えられた檸檬のように、他人の想像力の中で爆発しているだけなのだろうか。せっかくの偶然性を自己の同一性へと同化し内面化することで終わるしかないのだとすれば。いや、それこそがいまそこにいるお前の偶然性なんだよ、と言ってくれる人がいるだろうか? たとえば音楽に異なる音楽や言葉をかぶせるように、単層としてのそれではなく、歴史の重層としての現在に気づかせてくれるべく。
これだけはいえそうなのは、あたりまえのようだけれど、この作品は、映像のために音楽が添えられている映画ではなく、音楽のチカラを伝えるための(人々と街の記憶の、演奏と演奏の記録の、海峡と海峡に渡された橋の)映像になっているということ。時間というものの存在、時間の流れというものを否応なく感じさせ、同時に歴史とともに変化し続けている音楽というものの目には見えないはずの姿を、その動態を浮かび上がらせもする映像がここにあって、それがこの商品を商品の外へと開く大きな窓になっている。この窓の前に立つ者は、商品を通じて商品の外に気づかされるという皮肉についても、それを気に病んでみせるポーズしかとれないのだとしたら、音楽や映画だけでなく、ありとあらゆるものを商品化していく資本主義の流れに対する抵抗としては、どんな有効性ももたないことにも気づかされるだろう。
商品というものはやはり、消費されてこそのものであろう。需要があって、つまりは買われてはじめて付加価値というようなものもまたありうるのである。だからこそ、作り手があらかじめ計算した消費の範囲を超えたかたちで受容されるものは、やっぱりおもしろい作品ということになりそうである。しかしまたこの映画には、たとえば映像をつくり提供する条件や環境が変わっていけば、現在の、たとえばイスタンブールにおける音楽事情が実際そうである以上に、商品の外にでてしまう部分をもった映像もまた現れ(それにしたところで、やはり商品化されてしまうとしても、たんなる消費としてではなく)それらが受容されるようになっていく可能性、そういう一面についても、教えられた気がする。
http://www.alcine-terran.com/crossingthebridge/
『CROSSING THE BRIDGE: THE SOUND OF ISTANBUL』、2005年、ドイツ・トルコ、ファティ・アキン監督作品。