『倫理という力』


倫理という力 (講談社現代新書)

倫理という力 (講談社現代新書)

 躾と感化とは、子供が教育される時の切り離せない二つの側面になる。個々の人間が、自然の群れのなかではなく、社会のなかに産み落とされる限り、教育のこれら二つの側面は、必要なものだと思われる。社会が複雑になればなるほど、躾は種々の共同体のなかで多様化し、分業化する。私が尊敬してやまないトンカツ屋のおやじは、修業時代には、ずいぶん厳しい躾を受けたに違いない。この躾は、彼が志した職業上の技術の習得と一体になったものであり、習得に欠かせない生活条件だったとも言える。躾を欠いたままの技術教育は、まことに非効率なものである。逆に、技術教育の裏づけがない躾は、まことに不安定なものであり、すぐに馬鹿馬鹿しい頽廃をみる。
 しかし、この技術教育がほんとうの素質を育て上げるには、感化が要る。模倣への欲求を掻き立てる一人の人物が要るのである。すぐれた料理人を育てる調理場には、必ず模倣の対象となるようなすぐれた料理人がいる。このような人物は、単に技術がすぐれているだけではない。他人の内に模倣への欲求を掻き立てる何かが、その技術を根底から作り出すものになっているのである。彼は意図せずして、他人に感化を与える。意図して為される教育は、意図せずして引き起こされる感化なしには、決して実を結ばない。p72-73

 ……儒学者流の道徳の不要を唱えた本居宣長は、このことをよく知っていた。善悪是非を賢げに論じて道徳を説く輩に、ものの役に立つ人間は一人もいないと彼は考えた。人間には道徳などいらない、ものの役に立つだけで充分である。その知恵を深くする努力があるだけで充分である。なぜなら、その行為のなかには、「事の心」「物の心」を知る能力のすべてが備わっているからだ。宣長は、たとえばこう言っている。
 「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるゝにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也」(『紫文要領』)
 このことに付け加えるべき道徳などはない。あれば、議論になり、争いになり、やがては殺し合いになるだけであろう。そんなものの何が道徳であるか。宣長には、そういう徹底した信念があった。反対に、「事の心」「物の心」を知る努力の深まりのなかには、決して争いを引き起こさない一つの強い喜びがある。p139-140

 しかし、生きる目的は、ほんとうは私たちにはどうにもならない死の成就と切り離すことができない。私たちのなかで育っていく死によって、少しずつ遂げられていくような生の目的がある。したがって、私たちにはその双方が、はっきりとは見定めがたい。見定めがたいということが、人間の理性がこの世に生きるということの意味である。生の目的は、私たちを生んだ自然(スピノザの言う「能産的自然」)だけが知っている。この自然は、それ自体が〈ひとつの生〉であり、運動であり、力だとも言える。それは、無数の種を産み、個体を産む。産んでは消滅させ、消滅させてはまた産む。それは何のためなか。何のためか、と問うことのできる人間を、自然が産んだのは、また何のためか。
 要するに、私たちの生の目的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的と同じ方向を向いている。私たちの理性は、この目的が何なのかを問うことはできる。が、明確な答えを引き出すことはできない。「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。答えて、その目的に応じる行為となる。それなら、この答えがうまく出るような生への問い方を、私たちは絶えず工夫しているほうがよい。それが、他のどの動物でもない、人間として生きるということではないのか。p184-185