武庫川

今その心ばへをまうけていはば。世にたふときひじりのあらんに。いみしく盛なる花紅葉の本にはしばし立よりて。あなめでたといひ思ひ。又道かひにておかしき女にゆきあひては。目も見やらずして過行めり。この二ッをおもふに。花もみぢも同じこのよの色香なれば。心とむべきにはあらねども。殊に執のとまるばかりはあるまじければ。法師もすこしはめでたらんもさのみとがあるまじく。女の色はことに人の心をまよはして必のちのよのさはりとなりぬべき物にて。世すて人はさらに目にも触まじきことにしあれば。この聖のふるまひはいとたふとし。されど心のそこよりまことにしかりといはばいみしき偽なるべし。其故は花紅葉のいろかはめでたきも猶かぎり有て人の心にそむ事あさく。人の色はそこひもなくかぎりもなき物にて心にそむ事こよなう深し。さるをかぎりある花紅葉をさへめづる心に。かぎりなき女の色をばいかでかめでたしとはおもはざるへき。(『石上私淑言巻二』)『本居宣長全集 第二巻』(筑摩書房)p161-162

夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ(与謝野晶子『みだれ髪』)

すべて世中にいきとしいけるものはみな情あり。情あれば。物にふれて必おもふ事あり。このゆへにいきとしいけるものみな歌ある也。其中にも人はことに萬の物よりすぐれて。心もあきらかなれば。おもふ事もしげく深し。そのうへ人は禽獣よりもことわざのしげき物にて。事にふるゝ事おほければ。(『石上私淑言巻一』)宣長前掲書p99


世の中にそれでも歌を歌えずにいた歌わずにいる人のいて

思い出に、とアウステルリッツは言った。今から、父の行方を捜しにパリに行こうと思っています。父が暮らしていた時代に自分の身を置いてみたい。それは一方では、イギリスにおける私のまやかしの人生からの解放にはなるでしょう、でももう一方では、たとえその見知らぬ街へ行こうと、いやどこへ行こうとも、自分はけっしてその街の人間にはなれない、そんな予感がぼんやりとして、胸を塞ぎます、と。(W・G・ゼーバルトアウステルリッツ』p243

よろこびかのぞみか我にふと来る翡翠の羽のかろきはばたき(片山広子翡翠』)

さきほどもお話ししたようにまたあるときは、とアウステルリッツは語った。父がまだパリにいて、いわば姿を現す好機をうかがっているだけではないだろうか、と思うこともありました。こうした感情が湧き起こるのは、きまって、現在というよりは過去に属している場所にたたずんだときでした。たとえば街を彷徨っているうち、何十年間と少しの変化もないひっそりとした裏庭などをのぞきこむと、忘れられた事物のもつ重力場の中で時間がとてつもなく緩やかに流れていることが、ほとんど肌身で感じられるのです。すると、私たちの生のあらゆる瞬間がただひとつの空間に凝集しているかのような感覚をおぼえる。まるで、未来の出来事もすでにそこに存在していて、私たちが到着するのを待っているかのようなのです、ちょうど私たちが、受けとった招待に従って定まった日時に定まった家を訪れるのとおなじように。それに、と、アウステルリッツは続けた。私たちは過去に、つまりすでに過ぎ去りあらかた消え去ったものに対して、約束をしているのだとは、そして自分たちと何らかの繋がりをもつそれらの場所や人々をいわば時を超えて訪れなければならないのだとは、考えられないでしょうか?(ゼーバルト前掲書p247-248)