『時をかける少女』

「東京猫の散歩と昼寝」http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070421に「偽日記 07/04/20に『時をかける少女』をDVDで見たとある。私も同日だったので(……)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html」とあって、じつは私も「同日だったので」驚いた(以前ここでも紹介したとおり、私は劇場でも2回見ている)。そこでtokyocat氏は、「偽日記」古谷利裕の言(07/04/04分を含む)にふれながら、

人間は、自然現象を、自らの脳の認知形式に従って受けとめる。しかし「自然そのもの」には、脳の形式に収まらない途方もない複雑さがあるかもしれない。
さらに。
芸術は、脳内現象を、自らの表現の形式に従って受けとめる。しかし「脳そのもの」にも、表現の形式に収まらない途方もない複雑さがあるかもしれない。


とまとめている。「偽日記」(07/04/04分)では、直接的には新海誠作品(『秒速5センチメートル』)をとりあげていて、それについてこう述べられている。

だが、作品における風景表現は、しばしば人の内面の方へと大きく傾く。まさに、ある感情を生むために、ある気分をつくるためにという目的に沿って、かたちづくられる。この時風景は、外界への通路を閉ざされる。このような風景は、たんに叙情へと流れる。新海誠による、リアルで、日常的で、しかし過度に断片化された風景は、ぼくには外界への通路が塞がれた、息苦しいものに感じられる。それはまさに、感情が記載される場としてのみ機能する風景であって、それが登場人物の感情の外へ、あるいは作品という構造体の外へも延びて行き得る奥行きをもったものとは、どうしても感じられない。それは、実在する桜の花を見ることと、桜の花が人に与える効果を分析して、その効果を人工的に再現させたものを見ることとの違いとも言える。それは一見同じような経験に思えるかもしれないが、後者には、未だ発見されていないもの、意識化されていないものを、新たに発見するという可能性が、あらかじめ閉じられているのだ。(世界には常に、未だ発見されていないもの、意識化されていないものへの通路が開けているはずだ。)桜の何が、人にどのような影響を与えるのかということは、本当は「影響があらわれる前」には、決して分らないはずなのだ。その「分らない」という幅をどの程度含み得るかどうかに、作品の質はかかっているように思われる。


tokyocat氏のことばに触発されつつ古谷氏の文章を読んで私が思ったのは、それが「内面の方へと大きく傾」いた「風景表現」であったとしても、またそれが「実在」が「人に与える効果を分析して、その効果を人工的に再現させ」ようと意図した表現であったとしても、それでもそれが作品であるかぎり「未だ発見されていないもの、意識化されていないものへの通路が開けている」のではないか、ということ。つまり表現というものは、結果的に当初の目的に沿うように実現されるものではなく、コントロールしきれるものではない*1ということであり、それはたとえば新海誠作品であっても、細田守作品であっても同様である、ということである。
また、tokyocat氏は「渦状言論」における東浩紀の評《この作品が感動的なのは、「人生はリセットできない」でも「人生はいくらでもリセットできる」でもなく、「人生はいくらでもリセットできるが、ひとつの場面はやはりいちどしか経験できない、したがって成長は無意味ではない」という、とても肯定的な、しかも力強いメッセージを伝えてくれるからです》http://www.hirokiazuma.com/archives/000239.htmlも並べて紹介している。そこで東浩紀は、次のように言葉を続けている。

ある経験があるとして、それがたとえゲームだったとしても、またそれが幾度でもリセット可能だったとしても、ある特定のとき、特定の瞬間のフラグやパラメーターの組み合わせに戻るためには、ふたたび膨大なプレイ時間が必要となり、しかもそのときにはこのプレイヤーである僕の心理状況が変わっているので、実際にはそれは一回かぎりの経験と、すなわち人生と変わらない。僕の考えでは、アドベンチャー・ゲームの本質とはそのようなものですが、『時をかける少女』は、それを青春映画として表現した作品だと思います。反復する時間と成長する時間の相克を、このように美しく解決した作品を、僕はほかに知りません。


これらの言葉を読んで私があらためて思ったのは、「『ひとつの場面はやはりいちどしか経験できない』ということを知る」ということが、やはりいちどしか経験できない「ひとつの場面」であり、「成長」なのだ、ということである。そして「知る」ということは、とりもなおさず、その人間の「生き方を変える」ということなのだと、これまたあらためて思った次第。

追記
「偽日記」古谷氏の07/04/21分http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.htmlにある文章を、上に書いた昨日の私のmemoに対する「応答」のように読んだ。絵を描く人としての視点からの、表象の問題や自己言及的な問題についての、たとえば次のような言葉は、とてもわかりやすい。

いわゆる「近代絵画の終わり」以降、もの凄い勢いで具象絵画が復活してきている。しかしその具象絵画は、モノを描くのではなくイメージを描くものだ。それは例えば、アニメのキャラクターが、人物をモデルにして造形されるのではなく、他のアニメのキャラクターやマンガのキャラクターなどの既に「表象物」となったものを参照して造形されるのとかわりはない。(だからそれは、人体よりも、「描かれた人体」に似ているのだ。)しかしぼくがやりたいのは、あくまで実際の人体から刺激されて作品をつくることだ。人体というものが他とは違った特別なモチーフになり得るということはおそらく、それを描いているぼく自身もまた「人体」であるということによる。ぼくが「人体を描く」というのも、それは人体の具象的なイメージを描くということを直接意味するわけではない。(だから人体を描いても、それは人体に似ていないかもしれない。)それは人体がつくりだす空間を捉えることであり、人体の動きを捉えることであり、人体が動くことによって空間が動くという出来事を捉えるということなのだ。そして、絵を描くということもまた、自分の身体の動きによって画面上の空間を動かしてゆくということでもある。


たとえば、先日の米国の銃乱射事件をTV報道によって知り、犯人から届けられたというヴィデオや写真をウェブで見て、韓国政府が(事件を自分たちの民族や国家と結びつけて)弔問団を送ろうとしてアメリカ政府に断られたという記事を新聞で読んで、というようなことは皆「既に『表象物』となったものを参照して」いるだけであり、それへの反応は、あたりまえだが、事件そのものに対してではなく「描かれた」事件をめぐってのものだ、ということになる。それで思い出したが、たとえばある本(『抵抗の場へ』(洛北出版、2007年)を読んで、『戦場にかける橋』を見直してみた、なんてことも同じで、まったく「表象」の世界のなかにとどまっているということであり、上の古谷氏の文章は、そうした現実のモノやコトとの直接の出会いを欠いた、既成のイメージに寄り掛かったという意味では擬似的で二次的な表現行為に対する批判になっている。
正直にいって、私は自分が「世界」に向きあっているのか、「言葉」に向きあっているのか、はっきりとした答えをもてないときがある。「言葉」から独立した「私」や「世界」などない、と確信しているわけではない(とりあえず、自分に向かって飛んでくるものがあればよける)が、かといって、ではそれらを「言葉」なしに(「ボール」だとも「ツバメ」だともわからないまま)どう輪郭づけたらよいのだろう。それらを音の連なりにしたり、色や形にして描いてみるにしても、そこに何らかの形式というものがなければ、それらを誰かと共有することは不可能ではないか。そしてここにいう「何らかの形式」とは、広い意味での「言葉」(既に表象されたもの、あるいはそれらを媒介するもの)ということではないか。tokyocat氏のいうように、世界の複雑さといったものは、新しい、しかしやはり「何らかの形式」として、つまりは新しい「言葉」の誕生として示されることがありうるのだと思う。しかしどうやら私は「形式/言葉」の外にある世界(の豊饒さ)については、ありそうだけどよくわからない、としかいえないままでいるようなのである。

*1:それがどこに置かれ、何と並べられ、誰に見られるかなどによって、その作品は、ちょうどここでの私による引用がそうだが、別の文脈に置かれたひとまとまりの文章のようになるのだし、いや、じっさいのところ、たとえば十七文字の言葉の連なりの内部でさえ、無数の並びや組み合わせが存在しており、それらのすべてに意識的であることは不可能である。もちろん、そんなことはわかりきったことだろうから、古谷氏は「特定の文脈だけを意識して拵えた、そこでしか通じないような表現は貧しく、そんな表現を含む作品は感心できない」といいたいのだと思うが、それでも「通路」はあるだろう、ということである。それから、tokyocat氏は上手にアポリアの罠にはまるのを避けているのだが、私はといえば、「認識/表現の形式から独立した自然/芸術があるのか」といった表象やパースペクティヴの問題とも絡む問いや、たとえば「脳もまた自然である、とみなす脳」のような自己言及的な問いなどに対して、まったく自由ではなく、不明なままである。