『気球クラブ、その後』

第七藝術劇場。ケータイでのやりとりに応じた短いカットの連続は、テンポよく軽快にスイッチする心に対応していて、いかにも今風なのだが、同時にけっこうシンドイのだな、これが。その感じは、じっさいに現代を生きる若者たちも共有しているのだろうか。ケータイのメモリを消去した仲間同士をつなぐのが、都会のビルの空に浮かぶ気球、というのは悪くない。しかしメッセージをぶら下げたミニチュア気球の上昇を妨げる天井の意味は深長だ。
二郎(深水元基)は、村上(長谷川朝晴)が美津子(永作博美)に宛てたメッセージ(そのものは明らかにされないのだが)を読んで「知る」ところがあったのだろう。公園に出て、その小さな気球を空へとリリースする。男の夢(上昇)と女の日常(重力)という対比は、単純と複雑という対照でもあるのだが、それらを映画はどう描いているのか。村上の死から始まる映画は、しかし路面に転がるヘルメットを映すだけで、事故のシーンも、彼の傷ついた身体も、病院のベッドで横たわる姿もなく、通夜も、告別式も、黒枠で囲まれた遺影すら排除しているのだが、これがなかなかに気持ちよい。
村上を仲間だけで弔う会に現れなかった美津子が、夕暮れ、河原に設置された「気球BAR」に姿を見せ、タバコの火で気球に穴をあけた彼女が、その放置された(といっても、中では二郎とヒロシのふたりが眠っているのだが)巨大バルーンに背をもたせかけて揺れるといったシーンを、半透明な気球の内側と外側から交互に撮っているところも、ユーミンの曲「翳りゆく部屋」の使い方と共に印象に残る。単純に寓意化されることを拒んでいる映画だが、隠喩的な映像を人物のセリフでもって直喩的に(換喩的にといったほうが正確?)説明しているのは、気になったところ。
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