『アーキペラゴ』


アーキペラゴ―群島としての世界へ

アーキペラゴ―群島としての世界へ

今福 ……
 ところがインディアンが子供に名前をつける時というのは、母親の陣痛が始まると、父親がそのそばに座ってさまざまなものの名前−−北風とか黒曜石とかハリエニシダとかいった自然界にあるものの名前が中心ですけれども−−それをえんえんと唱え始めるんです。まだ子供は生まれていないんですけれど。それで言葉が流れているどこかの瞬間に子供が誕生する。その瞬間に発せられた言葉がその子供の名前になるんです。ここで名前というのは、完全にあるプロセスの中から偶然に生まれてくるものとしてある。人間の存在自体もあらゆるものの流動の一点との関係の中で、存在してきたものだという意識が働いているんでしょうね。ですから名前の持っている固有の特権性みたいなものは、インディアンの世界ではまったく違うものとして意識されている。それは印象的なことだと思いますね。地名とか人名というのは、吉増さんがおっしゃるように何か語りえないことをその名前が告げているというふうにも考えられるかもしれませんね。p120-121

今福 ……
 光学的なテクノロジーの比喩がなぜ有効かというと、たとえばシャッター・スピードですね。これは光が入ってくる露光時間を決定するものとして、写真の技術的な根幹にあるわけですが、シャッター・スピードというのは、瞬き、人間の身体的なメカニズムに置き換えれば、目の瞬きの速度に置き換えられます。そうすると、僕はこの写真集(レヴィ=ストロース『ブラジルへの郷愁』−引用者注)を見て、六○年の瞬きがここにある、という直感があるんです。ブラジルという被写体にたいして、光学的な意味で六○年という速度でもってシャッターが下ろされたらどうなるか、ということです。開かれた眼がいったん閉じられて、また開かれるまでの間が六○分の一秒ではなくて、六○年なんですね。長い露光時間に耐えたブラジルがここにあるのではないか。そして人間の想像力が光学的な意味で重要だというのは、たぶんそういう意味で、ある一つの風景、あるいは二つの風景を対置させてみたときに、人間の眼はそこに六○年という、写真技術ではあり得ない露光時間を設定できてしまうわけです。p142

 そこに灰がある、というモノの存在を示すはずの言葉が、モノの非在をも同時に示してしまうという逆説。夕暮れの墓地の焚火の焔が、わたしの意識に永遠の充満と、痛ましい歴史の固有性とのあいだの不可能な往還を誘いかけてくる……。だが、そこに灰はない。いや、長いあいだ、島の墓所には灰がなかった、とわたしはまもなく気づく。風葬と洗骨の島は、いうまでもなく、遺骸を焼却することなく、逞しい骨として、人の存在の証をそのままに珊瑚石灰の岩室に送り返してきたのではなかったか。現在の火葬の習慣は、ごく近年の行政的な指導によって、不承不承この島に取り入れられたしきたりにすぎない。そこに灰はなかった。肉体の誕生と滅びと恍惚(エクスタシー)とは、そのままに、骨=珊瑚として、この墓所に躍動している。p189(今福龍太「群島に灰はなかった」)