『近代化と世間』、人間狼、フーゴー

個人、自然、公共性、アジール、聖なるものへの憧憬などの考察を手がかりにして西欧社会の特性を論じ、そこでの賤民の成立と解体を社会史的視点から概括的に辿る第一章、日本の「世間」が分析される第二章、東西の歴史学の現状が比較検討される第三章、トインビーと親鸞をヒントに、国民主権国家としての日本の未来を望見しようとする、かなり急ぎ足の終章から成っている。著者は昨年9月に亡くなっている。本は12月に出版されている。以下、メモとして。
ヨーロッパ中世の差別の問題の起点にあるとされる人間狼。

 人間狼に関する以上の考察から、一体どのようなことがいえるだろうか。ここではっきりさせておかなければならないのは、共同体の平和を乱す行為をしたものが、平和喪失の宣告を受け、死者として追放されたという事実である。この死者は通常の死者とは違う。通常の死者は墓に埋葬され、ときには家の中やそのそばに死者の位置をもっている。キリスト教が普及する以前において、死者は消滅したのではなく、生者と同じ権利をもって生きている存在と見られていたからである。しかし平和喪失を宣告されたものには墓は作られない。彼はさまよい歩く死者 Wiedergaenger として人々に恐れられる存在となったのである。まさに狼の皮を着せられた瞬間に、彼は狼に変身したものと考えられたのである。p55


よく引かれる言葉であるが、たとえばサイードが『遠い記憶の場所 自伝』の末尾近くに記していた言葉「今では、ふさわしくあること、しかるべき所に収まっていることは、重要ではなく、望ましくないとさえ思えるようになった。あるべきところから外れ、さまよい続けるのがよい」やアドルノ『ミニマ・モラリア』にある言葉「自分の家でくつろがないことが道徳の一部なのである」のふるさと、ただし「Out of Place」としての。

「全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。−−祖国が甘美であると思う人はいまだ脆弱な人に過ぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。第一の人は世界に愛を固定したのであり、第二の人は世界に愛を分散させたのであり、第三の人は世界への愛を消し去ったのである。私はといえば、幼少の頃より流謫の生を過ごしてきました。そして、どれほどの悲痛をともなって、精神がときとしてみすぼらしい陋屋の狭苦しい投錨地を後にするものか、どれほどの自由をともなって、精神が後ほど大理石の炉辺や装飾を施した天井を蔑むものかを私は知っている」*1
 この部分はおそらく日本人には最も理解しにくいところでしょう。後段で私は日本社会の中の「世間」について論ずる予定ですが、その「世間」がここでいう祖国だと理解していただきたい。p132-133


阿部謹也『近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本』(朝日新書、2006年)[ISBN 4-02-273118-4]

*1:サン・ヴィクトールのフーゴー「中世思想原典集成」第9巻・平凡社