遠吠え

ラフカディオ・ハーンに、彼が越してくる以前からその家に居着いて(なんだか猫みたいだが)、代々の借家人を守ってきた、白い雌犬について書いた文章がある。見知らぬ人間以外の誰もに好かれる、半年ごとに野犬狩りがまわってくると、近所の人たちが守ってくれるような、ふだんは静かで大人しい犬で、警官に注意されてからは、その背中に「外人さんの名前」、左の脇腹に「寺の名前」、右の脇腹には「鍛冶屋の店の名前」が、そして八百屋の略語である「八百」という漢字が、その胸にまで書かれるようになった「珍妙な姿」の犬である。しかしそんな愛すべき犬にもひとつだけ欠点があって、それが夜の遠吠えなのである。やめさせようとしたことがあるが、相手は自分が本気なのを理解してくれないし、だからといって犬を叩くなんてぞっとするので諦めてしまった。それでもやっぱりその遠吠えは「いやでたまらない」として、その「言いようのないこわさ」について、次のように続けている。

この犬の遠吠えは、ちょうど悪夢にうめくような、抑えた唸り声に始まり、それが次第に高まって、風のむせぶような、長い長い叫び声になる。やがて、震えながら低くなって含み笑いになったかと思うと、再び上がって、前よりずっと高く激しい叫びが続く。そして突然、身の毛のよだつような笑いに変わり、最後には、幼い子供が泣くような、身も世もないすすり泣きになるのである。(……)この犬が私をとても好いていてくれるのは確かだ。いつでも私のために命を投げ出してくれるだろうし、私が死ぬようなことでもあれば、きっと悲嘆にくれるに違いない。だが、他の犬たち−−たとえば耳の垂れた犬のような受け取り方はしないだろう。この犬はあまりに野生に近いのだ。もしもどこか荒涼とした場所で私の亡骸とともに残されたとしよう。はじめ犬は、友である私の死を悼んで激しく鳴くだろう。しかし、この義務を果たすと、悲しみを癒す一番単純な方法の実行に移る。それは亡骸を食べることだ−−狼の長い歯で骨をかみ砕いて。それから、良心に一点の曇りもない、安らかな心で腰をおろし、祖先から伝わる哀悼の歌を月に向かって捧げるだろう。(「遠吠え」河島弘美訳、『光は東方より−小泉八雲名作選集』p186-187)


「昔我々自身の実質であったものを、我々は永久に食べ続ける」。どんな生き物であれ(無生物でさえも!)、自食する存在である。ハーンは自然をそんなふうに観ている。そして犬の遠吠えに「生の掟」そのもののような声を聞く。極東の信仰のほうが、西洋のそれよりもこれにうまく対処しているのかもしれない。しかし犬は「多くの人間よりも目覚めている」。そしてどんな賢者であっても、「夜中に遠吠えをする私の犬ほどにも真実について知りはしないのだ」と書く。