『ククーシュカ』

言葉の通じない3人のユーモラスな同居生活。第二次大戦末期、フィンランド北部ラップランドで、その反戦的姿勢を咎められ、置き去りにされたフィンランド軍狙撃兵ヴェイッコ(ヴィッレ・ハーパサロ)は、数日をかけて、自分を岩につないでいる杭を引き抜くことに成功する。4年前に夫を兵隊にとられてから独り暮らしをしているサーミ人アンニ(アンニ=クリスティーナ・ユーソ)は、秘密警察に連行される途中で重傷を負ったソ連軍大尉イワン(ヴィクトル・ブィチコフ)を救出していた。ヴェイッコはアンニの家に入り込み、3人が生活する奇妙なノーマンズランドが成立する。そこでは、ヴェイッコはフィンランド語をしか、アンニはサーミ語をしか、イワンはロシア語をしか、解さないのだ。ドイツ軍の軍服を着せられたヴェイッコをイワンは(ナチではなく)ファシストと呼び、隙を見ては殺そうとするのだが…。

認識の意味が、習慣の形成としての信念の確定であるとすれば、探求が目指すのは個々の具体的な行為ではなく、行為を統御する自己批判的な機能全体であるということになる。すなわち、探究の目的は、行為という第二性ではなく、習慣という一般者、第三性である。そして、この第三性としての習慣形成を未来の目標として有するということは、探究という過程が、行為の挫折という一つの刺激に対する反作用ではなく、習慣という未来の状態を生み出すそれ自身が媒介的な過程であるということを意味する。『パースのプラグマティズム』p171


出会って共に生活し、別れて、そして生まれたものを育んでいく。ふたりの男たちが去ったあと、映画はラストに数年後の時間をつないでいる。大きくなった双子たち?に「父たち」との過去を話すアンニ。変わって、変えられて、変えていくこと。
Kukushka / The Cuckoo』、2002年、露、アレクサンドル・ロゴシュキン監督作品。


追記 この映画にも、死の世界と生の世界の「ボーダー」が視覚化されたシーンがあって、それは銀髪の少年が引導する磊石の多い黒い山を谷のほうへ(黄泉の国へ?)ゆっくり下っていくというイメージで、空間全体が蒼く昏い。三途の川のような水は、そこには見あたらない(でも、どんなところが撮られていても、それが地球だとわかる限り、たとえ幽かながらでも、なにがしかの生命の蠢きのようなものを感じてしまう。月の写真が好きだったりするのは、そういうものを感じさせないからだろうか?)。イワンに撃たれて死にかけたヴェイッコがサーミの伝統的な呪術によって生の世界に戻ってくる場面に挿入されているのだが、そのときアンニは太鼓を叩きながら呪文を唱え、ときどきヴェイッコの耳元で犬の遠吠えのような声を出して(ついには手に噛みつきまでして)彼を現世に呼び戻そうとする。そういえば彼女が性的興奮の絶頂時にあげるのが、ちょうどそんな声で、ひとり締め出されたイワンが、延々と続く彼女の遠吠えに遠慮して小屋に戻るのをためらい、干し草にもぐってふて寝する場面が挟まれていた。