『秒速5センチメートル』

MKK、彼女の友だちRIKと一緒に@テアトル梅田。「ほしのこえ」の作者による「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」の3編から成る連作短編アニメーション。
てっきり彼(遠野貴樹、声:水橋研二)は宇宙船にでも乗るのかと思っていた。待っていてくれた、という経験、あるいはその経験への意味づけが大きすぎたのだろうか。はじめて遂行できた自らの選択による行為に対して、僥倖のように彼女(篠原明里、声:近藤好美(第1話 )・尾上綾華(第3話))の応答があったこと。もしかして彼は、今度は向こうが自分の方に来てくれる、と勘違いした(かった)のだろうか。もちろん、距離こそが欲望であり価値なのである。しかし、出来事への過剰な意味づけが、その後の人生における選択や偶然の幅を狭くしてしまったような。
尾を引く雲でもって画面を右と左の、明と暗の二世界に切り裂きながら、憧れの向こうへと空を駆け上っていくロケット。対して、気づかないうちに日々降り積もる生活の澱のように、無数のドット(句点)として緩やかに舞い落ちてくる桜の花びら、雪、雪、雪。そして画面を水平に横切って奥行きを宙づりにし、向こうとこちらの世界を切断してしまう列車。その連結部分の揺れ、窓枠の氷結、遅れを示す時計、いや、精確に描き込まれたこれらモノの細部やコトの断片をもっとアレゴリカルに読み解くことも可能だろう。安定しないことでつながっていて、痛ましくて、いつでも時機は失してしまうことこそが歴史であり、上昇(飛翔)が下降(重力)に必敗するのが世界である、という苦い認識を噛みしめながら、なら。
速さは、ほんとうに彼を救うのだろうか。地形の起伏に合わせて地表での位置をずらし続けていくバイクは、けっして速くはない。うねって、盛りあがって、くずれて、押し寄せては引き返す海の表面を、しかも一つたりとも同じものはない波のうえを、うまく滑ってみせようとする少女(澄田花苗、声:花村怜美)もいたのだ(じっさい映画は平面だけでやっていて、なのにその表面について語ることをせずに、ついつい向こう側やこちら側のことをあれこれとしゃべってしまうのだが、今回あらためて感じたのは、たとえば水の動きやその量感を表現することの難しさである*1)。時速5㎞、レールに載せて着実に運ばれていくロケット。でも遠くの彼方を望み見ているつもりで、目の前にあるチャンスを逸してしまう。待ってしまったばかりに、かえって決定的に遅れてしまった青年。隔たり、すれ違い、くり返し。彼の最後の微笑みを、現実に対する諦念(主体の同一性の確認?)ではなく、更新への一歩(多様な接合を生きるものとしての?)と見たくはなるが。
http://5cm.yahoo.co.jp/
秒速5センチメートル a chain of short stories about their distance』、2007年、日、新海誠監督作品。

*1:それはパイプラインを抜けていくサーファーのボードの先につけたカメラがそうするような、動く視点でもってごく近くから、動く水のその一回性をとらえることにおいてよりも、たとえば視点を固定したまま遠くから、ロングショットふうに渚を洗う波の反復をとらえるようなときに(もちろんそれにかけられる時間や予算にもよるのだが、こちらはカットを挟み込むことなしに、くり返しが伝わる程度にはしばらく連続して映さなければならない長さが必要で、現実にはその間に一度として同じ波がないというわりには、その表現はともすれば単純、単調になりやすく)、よりいっそう困難が増すような気がした。