『今宵、フィッツジェラルド劇場で』


@テアトル梅田。アルトマン監督の遺作を観る。ミネソタ州にある劇場で、三十数年にわたって公開生中継が続けられた人気ラジオ番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」が、ついに迎えた最後の夜。苦さも暗さもその裏側にしっかり張りついているだけに、生きることの、ここではとくに歌うことや人とつながることの大切さ、楽しさが、ストレートに伝わってくる。美しいけれど冗談を解さない*1天使=生者を他界に誘う死神が、ある人たちと観客である私たちには目に見えるかたちで描かれているが、ほとんど劇場の舞台、舞台裏、楽屋を映しているだけなのに、遠くでラジオを聞いている人たちの人生までが目に見えてきそうなミュージカルな映像*2に、しばし酔う。続けること、終わること、始まること。だれもにいつか、ご指名はくるけど。
『A Prairie Home Companion』、2006年、米、ロバート・アルトマン監督作品。

*1:彼女がどうしてもわからない2匹のペンギンのジョーク。「キミはタキシードを着ているみたいに見えるよ」、「何が君にそうじゃないって思わせるんだ?(ぼくがタキシードを着ていないって君に思わせるものって何?〔そんなものがあるかい?〕)」。字幕ではたしか「これこそがタキシードさ」。

*2:じっさい観客である私たちが耳で聞いているものが、そのまま放送されているわけではないし、放映されてそれが目に見えているのでもない。ときどき、そのずれにあらためて気づかせるかのように、登場人物がラジオのスイッチを入れてみせる。そうしていまここにはいない司会者(映画の脚本も書いているギャリソン・キーラー)の声が、別の出演者の歌(ウディ・ハレルソン、ジョン・C・ライリーら)が、実際にはごく近くにいる彼らの声や歌が、遠くから聞こえてくる。このずれに気づくことが、むしろ何かにチューンすることであるかのような錯覚。遠と近との、あるいは内と外との?異なっているはずの世界が、じつはいまここで溶け合っているみたいな。何枚もの大きな鏡、決して広くはない楽屋、舞台裏の入り組んだ狭い通路、衣裳や楽器や台本を抱えての行ったり来たり。普段着と舞台衣裳、姉妹(メリル・ストリープ、リリー・トムリン)でする父母の思い出話と娘(リンジー・ローハン)がつくる自殺の詩、すっぴんとメイク、劇場の運命(トミー・リー・ジョーンズ)と陣痛の演技(マヤ・ルドルフ)、おならと死者。インタヴューのようなカメラ位置やドキュメンタリーふうのカメラの動きに幻惑されてか、いつのまにか私たちは、いま目の前で展開しているものがそのままラジオのプログラムとして聞き手にも届けられ、映画内世界のラジオの聞き手たちもまた、この番組をまさに私たちが見聞きするとおりに、楽しんでいるかのような錯覚に陥る。たしかに私たちはラジオの聞き手でもあって、同時にまたラジオの聞き手を含んだ映画の観客でもあるのだが、しかしそのあたりの区別がどうにも曖昧に(それはたとえば、ちょうどいまこの映画を生放送のラジオ番組として、映画館の外で聞いている人さえ「いる」と感じてしまうくらいに)なってくるのだ。この「つなぐこと」をあらためて意識させる映画が一筋縄ではいかないクセモノであるのは、冒頭と結末を劇場の外の世界で挟んでいるところ、天使=死神(ヴァージニア・マドセン)を、しかも目に見えるかたちで登場させているところなんかに明らかだ。冒頭、狂言回し役の探偵兼保安係(ケヴィン・クライン)によって劇場の内に引き入れられた私たちは、結末では、天使=死神に自分も外へ連れ去られる/自分が登場人物たちを外に連れ去る、かのような二重の位置に立たされることになるだろう。そのとき外とは、たんに映画の中の劇場の外という意味ではなく、映画の外であり、この映画を見ているこの劇場の外であり、この世の外という意味でもある。探偵=保安係の主観ショットでもって、食堂に入ってくる天使=死神が映され、次に、今度はオレの番?と彼が自分の顔を指さすとき、カメラは天使=死神の主観ショットに切り替わっている。ここで観客は映画と強く結ばれ、私たちもまた外へと連れ去られる存在となる。そして瞬時の後には私たちは、目の前の登場人物たちに対してではなく、この作品に対して、さらには映画というメディアに対して、ちょうど映画の中における天使=死神の位置に、つまりは連れ去る側の存在として自分がここにいることもまた知らされる、というわけだ。次に見限るのは? それを見守ることも消し去ることもできてしまう存在。これは何とも落ち着かない自己同一化である。もちろん映画は、資本の論理でひとつのラジオ番組が打ち切りになるように産業としての映画も終わってしまうだろう、なんてことは言っていない。きっとラジオも映画作品も外の世界とつなぐもののあり方次第で生き続けることもありうる、ということだと思う。そして、でもやっぱり気になるのは、ごくふつうの聴衆や観客としてではない「つなぎ手」の存在。メディアとしての彼女は、自らの生が内と外とのあいだの世界に宙づりにされてしまうことをその身に引き受けることで、天使=死神として媒介する力を得ていたのではなかったか、ということ。