『ブロークン・フラワーズ』

ネタバレあり。同棲していた恋人シェリー(ジュリー・デルピー)は家を出ていった。いっこうに家族をつくろうとしないドン・ジョンストン(ビル・マーレイ)を見限って。隣家の住人は子供たちを含めてドンにはやさしい。ピンクの封筒に入った赤いインクの手紙が届く。差出人は不明だが、どうやら昔つき合っていた女性らしい。文面には、20年前に別れたが、じつはあなたの息子を産んでいた。19歳になる息子は父親を探して今にもあなたのところを訪ねていくかもしれない、と。さて、相手はいったい誰なのか。そして息子とは? 隣の住人(友人?)ウィンストン(ジェフリー・ライト)のお節介で、ドンは過去の思い当たる女性たち(ローラ:シャロン・ストーン(娘の名がロリータ)、ドーラ:フランセス・コンロイカルメンジェシカ・ラング、ペニー:ティルダ・スウィントン、そしてお墓の中のミシェル・ぺぺ)を訪ね廻ることになる。花屋さんの女性サン・グリーン(ペル・ジェイムズ)が可愛い。
気乗りがしない、でも、気にならないわけでもない。そのあたりの微妙な心の機微は、善意の(興味本位の?)第三者ウィンストンを介在させることで、ぐっとリアリティ(可笑しみ?)がでている。「リストを作っておいてくれ」「まさか!」「これから取りに行く」「ひょっとしてケータイ?」ってあたりで、実際はリストアップをすでに済ませたドンが、窓の向こうにウィンストンの姿を見て、「できた?」で家に入ってきたウィンストンに地声で話さず、あくまでもケータイで話し続けて、でも「これ」とやっぱり手渡してしまうドン、といった、ふたりの惚けたやりとりも笑える。このウィンストン、のちにドンの元カノのひとりが飼っていた犬(彼女が動物とコミュニケーションができるきっかけとなった今は亡き飼い犬ラブラドール)の名前としてもでてくるのだが、エチオピア音楽の愛好家で自分で編集したアルバムをCDに焼いてスケジュール表と一緒にドンに押しつける。飛行機で近くまで飛んで、レンタカーで現地へ。ドンのドライヴのあいだじゅう、トーラス(ポルシェじゃなく!)にエチオピアん・ジャズ?(歌謡曲っぽくて、どこか和風にも聞こえる、無国籍ふうムード音楽って感じの曲)が流れることになる*1のだが、この音楽がまた何とも気の抜けた映像にマッチしている。
ジャームッシュは『アメリカ、家族のいる風景』(ヴェンダース)が国旗を映していたのに対抗して?バスケットのゴールポストを欠かさず映しているんだろうか*2。女性との再会がどんどん谷底にころがり落ちていくような悲痛な旅になっていくのに、シニカルなものだけでなくユーモラスな笑いがどこまでも止まらない。同時に浮かびあがった5つの可能性が、ひとつずつ確かめられ消されていく。実際にあるのは、可能性ではなくて、潜在性である。そう告げているのだろうか。主人公は若者に請われて「大切なのは現在だ」と自分のテツガクを口にしもするが、どっこい映画は、因果にとらわれた私たちの思考のありかた自体を嗤ってみせているのかもしれない。
空港で見かけた青年をてっきり自分のところにやってきた息子だと勘違いしてサンドイッチをおごり、ついには「本当はおれを父親だと思ってるんだろ」と近づこうとするドンに怯えて青年が走り去ったあと、最後にドンの目の前を横切っていく車に乗ってるのが、ビル・マーレイの実子であるホーマー・マーレイだったというオチがついている。そのとき、カメラはドンの周りをぐるりと回りはじめる。そして360度回転し終えたと思ったとき、ドンはその向きを180度変えていたのだった。
Broken Flowers』、2005年、米、ジム・ジャームッシュ監督作品。

*1:ドンは自分の部屋でもウィンストンに曲をかけ替えられていたけど、部屋であれ車内であれ、自分の空間を他人のシュミの音楽で満たされてしまうことへの態度についていえば、たとえば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』では、主人公は徹底的に拒絶の姿勢を崩していなかったはずで、じゃあここでの抵抗なしのドンの受け入れって、諦念?それとも寛容?

*2:直感的にいえば、ヴェンダースは新しい「ホーム」や「ファミリー」のあり方を、やっぱり必要なものとして探っている。そしてそのとき、「個人」がやはりベースになっている感じ。対してジャームッシュは「ホーム」はある人にはあるが、ない人にはなくて、それはそれでよい。「個人」も「ファミリー」と同様の幻想にすぎなくて、すべてはつながりの中のあり方をどうとらえるかの違い、としているような。