『自然 まだ見ぬ記憶へ』

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ロダン展@兵庫県立美術館にいってきた。収穫だったのは、ロダンがいわばモジュール的発想の作家だったという発見である。人体の部分(とくには手あるいは四肢)を別の人体に、またその人体を二つ三つ組み合わせてみたり、もっと配置して群像にしてみたり。そうして部分は全体に作用し、全体がまた部分として機能する。そんな発想で作品を作っていたのだな、と。
そしてモジュールで思い出したのは、イヌクシュクという石を積みあげて作った像であり、岡本太郎がそれに注目していたことを紹介していた港千尋のこの本である。

それがその場所に不在であるからこそ、痕跡は存在できる。痕跡はモノというよりも、過去と現在のあいだの「面」なのである。p197


痕跡は、それ自体は静的なものである(そして不確実で儚いものでもある)けれども、じつはダイナミズムを、物事が動いていた状態をこそ語るものである。痕跡の作成装置としてのロダンインターフェイスとしてのロダンを考えてみるのも面白そうなのだが、少し寄り道をして迷ってみよう。

「黒灰色の冷たい石。その無機質な塊が積み重なると、その重みと固さでわれわれの前に立ちふさがり、ほとんど拒否しているように見える。それは人間像をとったことによって人間を拒み、人間を超える神聖、ひきつけると同時に烈しくつき放す神秘の存在となるのだ」。
「もうひとつの問題。イヌクシュクは石がただ積んであるだけ。全然接着していないというところにわたしは暗示を受ける。いわゆる『作品』としての恒久性、そのものとして永続するなどということは期待していないのだ。一突き、ぐんと押せば、ガラガラと崩れる。すると像は忽然と消えてしまう。そこらに転がっているのとまったく見分けのつかない、ただの石くず、二度ともとの形になることのない瓦礫に還元されてしまうのである」。(岡本太郎『わが世界美術史−美の呪力』)


港氏は、パースの三項関係をふまえて「生命そのものが記号過程である」とする生化学者ジェスパー・ホフマイヤーの言も紹介している。

「生命はその全てが記号過程、記号操作に立脚する。記号とは元来、柔軟であり、そこでは間違いが避けられない。その結果が記号自身に反映され、少しずつさまざまな方向へと移行してゆき、時空間のなかで新しい何かとなり、また習慣化してゆく」(『生命記号論−−宇宙の意味と表象』)


「柔軟」とは「自由」ということであり、自由とは「不定的/非規定的」だということである。にもかかわらず、たとえばゲノムがその解釈者としての受精卵の媒介によって生体となるように、「オルドヴァイ型人工物」としての石器が「ルヴァロワ技法」*1へと進化していく。認知考古学者スティーヴン・ミズンはこれを人間の心の進化の現れとしてみており、心の下部組織である三つのモジュール*2のあいだに流動性が生まれ、それらが一つの動的なシステムとして機能するべく有機的な結合が果たされてはじめて、「伝達の手段として、象徴的な意味をもつ人工物すなわち芸術」の制作が可能になると考える。そして港氏は、意識は無数の記号過程の「集団」によって構成されているプロセスであると考えるホフマイヤー氏の研究成果を敷衍して次のように述べる。

わたしたちの脳と身体は一体のものであり、それは世界とのあいだに不断の記号過程を作り出している。身体はひとつの群れ集まった実体であり、記号過程を行うシステムの全体である。このプロセスのなかで第三項として出てくるのが「意識」である。わたしたちは、自分の心が「集団」として機能しているとは感じないし、日常的にはそのように意識することも困難である。しかし知性が集団的な性格をもつことは、わたしたちが一個の人格として存在していることと矛盾するものではない。ハチの集団がひとつのまとまりある「社会」を構成しているように、知性のモジュールはその相互的プロセスを通して、ひとつの「社会」としての人格を構成する。p218-219


柔らかさをもつ知性、「集団の知性」がもたらす「集団的現実」の一例として、港氏は「写真」という技術の誕生をあげている。今日的な意味でのプロの科学者でも技術者でもない、ただ好奇心の赴くままに、自然科学、芸術、文学、芸能、歴史、経済といった異なる分野に手を出していたアマチュアたち(天文台長アラゴ、発明家ニエプス、舞台美術家&見世物館の興行主ダゲール、言語学者タルボット、大蔵省官吏バイヤールなど)のぞれぞれの発見や発明が基礎となって、光学像を化学的に定着させる技術としての「写真」が生まれることになる。

イヌクシュクの石積みが何らかの意味で呪術的な「像」であるのは、それが何時に瓦礫に帰してしまうか分からないからなのだ。瓦解した石積みは、またいつの日にか、別のかたちに組み上げられ、別の像として姿を現すはずである。瓦礫の山を前にして、心のなかで来たるべきイメージを構想し、意図的な伝達を行ない、そこに何らかの意味を付与すること。重要なのは個々の石が意味をもつかどうかではない。崩れればまた新たな結合のもとに、別の像として現われる、それが「集団的現実」なのだ。それこそが変転きわまりない、創造の力なのだ。p222


その制作手法ばかりでなくロダンという個人も「イヌクシュク」なら、美術館もまた次元の異なる「イヌクシュク」なのかもしれない。ある技術を可能にする異分野の知の連結や連動のメカニズムは、はっきりしないことも多いことだろう。しかし自然から力を取り出し、それに新しい形を与えてゆく力、「作りながら壊し、壊しながら作ってゆく」その母なる力の根源こそは、自然と心がつながっているところに存在する「記憶の力」である、と港氏はいうのである。


自然 まだ見ぬ記憶へ

自然 まだ見ぬ記憶へ

*1:この石器の「特徴は、左右対称性をもたせた剥片や尖頭器に見られるように、不定形の石に稜線を作り出すような、細かな作業にある。先端から左右対称の稜線が作り出されるには、まず加工がしやすい石を選ぶだけでなく、どの方向にどのような強さで叩けば、目的の形が取り出されるのかが頭のなかにプログラムされていなければならない。そしてそのプログラムが働くには、最終段階の形がイメージされていなければならない。つまり作り手は、割れるたびに変化してゆく対象の姿を常に注視し、見通しを調整し続けるために、石を叩いたときの手応えや音を、最終的なイメージへと連結し、作業を総合的に調整しなければならないのである。オルドヴァイ型石器のような、偶然に左右される形とは、根本的に異なる意識が必要になるのだ。」p214-215

*2:他の個体とのやりとりのための「社会的知能」、自然界を理解し、利用するための「博物的知能」、道具を作り、それを操るための「技術的知能」のこと。