『イメージ、それでもなお』
伝達不可能なものを、それでも伝達するために、どうするか。イメージに対する「不可視性」についての過度な一般化に抗して、イメージ=ヴェールではなく、イメージ=裂け目のほうに賭けてみよう、とディディ=ユベルマンはいう。たとえば地獄(ビルケナウ絶滅収容所*1)からもぎ取られた複数の写真には、スナップショットによる個人的とはいえない直接的なデータであるという単純性の側面だけではなく、同時に、集団的な計画と予見が、そしてどこに身を隠し、どうカメラを隠すかという課題に対する回答が、すなわちモンタージュの複雑性が内在しており、そこには明視(台風の目の真っ只中にいる/雲の少なさがその解釈を難しくする)と盲目(特定の位置からの視覚のせいで不鮮明な、あるいは見えない部分がある)が共存している(p46)。イメージは言語記号と同様にある効果をその否定とともに生み出すのである(p106)。
「見ることができないものは、見せなければならない」。ジェラール・ヴァイクマンは、イメージの排除、統合、絶対化−−無のイメージ、ひとつのイメージ、すべてであるイメージ−−だけがこの要請に応えられるはずだと考える。私はむしろ逆に、諸々のイメージの増殖や結合こそが、たとえそれらのイメージが不完全で相対的であるとしても、見ることのできないものをすべてに抗して呈示するための、多くの経路を切り開いてくれると考える。ところでわれわれのもとを逃れ去ろうとするものを呈示するための、第一にして最も単純な方法は、同じひとつの現象の複数の眺めや複数の時間を結びつけることで、その象形的な迂回路を組み立てることである。p172
イメージの現象学に必要なのは、具体的には、イメージの上に視角を絞り込みあらゆる映像喚起的要素をとりこぼさないことと同時に、視角を開いてイメージを取り巻く人類学的要素をそこに回復してやることである(p57)。
モンタージュが価値を持つのは、結論を急いだり、慌てて幕を下ろそうとしたりしないときだけである。歴史についてのわれわれの理解を開いて、複雑なものにするときであって、それをみだりに図式化するときではない。そして時間の様々な単独性、つまりその本質的な多様性に道を開くときである。p156
イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真
- 作者: ジョルジュ・ディディ=ユベルマン,Georges Didi-Huberman,橋本一径
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2006/08/08
- メディア: 単行本
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