『アドルノ』

第4章をもっともおもしろく読んだ。以下はメモ。

・全体性、他性の排除、客観の優位

アドルノは全体性を肯定的に使用することに敵意をいだいていたわけだが、それだけに彼が音楽に関してはこれほど歴然とそれに好意的であるのを見て、意外に思われるかもしれない。しかし、アドルノにとっては、理論的な意味での全体性と音楽的な意味での全体性とのあいだには決定的な違いがあるのだ。理論的な意味での全体性が本質的に概念的なものであり、したがってそのもとに包摂される非同一的で異質的な特殊を威圧する恐れがあるのに対して、音楽的な意味での全体性は非概念的であり、それだけに他性を排除する傾向があまりないのである。音楽のうちにあるいかんともしがたい模倣的契機は、音楽が、観念論哲学や実証主義哲学のように、けっして全面的に威圧的主観の構成物ではありえないということを示している。こうした意味ではベートーヴェンは、「客観の優位」に敵意をいだいていた当時の偉大な哲学者たちよりも、むしろある種のユートピア的な唯物論全体論にいっそう近かったのである。p236-237

・模倣的契機、自然の苦痛、回復の予兆

 模倣能力を言語の感覚的で擬声語的な源泉とみなすベンヤミンの模倣概念に依拠しながら、アドルノは、芸術は社会的不正によって巻き起こされる人間の苦痛だけではなく、人間によって苛酷に支配されている自然の苦痛をも表現するものだと主張する。彼が哲学用語を駆使して擁護したあの客観の優位がもっとも歴然と表われるのも芸術作品においてであり、芸術作品はその単なる構成的・主観的起源に還元されうるものではない。そこに含まれる模倣的契機は、本質的にユートピア的なものであって、それというのも、この契機は、有史以前の人間と自然の一体性の記憶(おそらくこれが文明人の幼年期の記憶においても反復されるのであろうが)をとどめているのであり、したがって将来可能なこうした状態の回復のひとつの予兆ともなるからである。p261

・無用性、苦痛の美的表現、支配なき差異の状態としての平和

 こうしたアドルノの真理への意志とでも呼べそうなものの起源にあるのは、モダニズムの作品群のなかでも表現主義的Angst〔不安〕にもっとも密接した作品のうちに保存されているような苦悩の経験である。というのも、彼が『否定弁証法』で述べているように、「苦痛に発言権を与えたいという欲求こそが、あらゆる真理の条件」だからである。美的真理のうちに何らかの積極的な契機がひそんでいるとすれば、それは、直接近づきやすいとか通俗的な影響力といったものに挑戦することによって、現代社会からの最大限の自律性を戦いとろうとするような作品のうちにのみ瞭然と現われてくることであろう。そうした作品は、芸術と現在の生活の統一を受容れるのを拒否することによって、いつの日か、芸術をそのもっともユートピア的形態において模倣しようとするような生活が到来するという希望を堅持するのである。というのも、そうした作品は、おのれを道具化しようとするいかなる試みにも頑強に抵抗することによって徹底した無用性を帯びるようになるものだが、ほかならぬこの無用性によって、現在の道具的理性の支配が公然と無視されることになるからである。そうした作品はそれが記録する苦痛のうちに人類の現在のディレンマを映し出してはいるのだが、そうした苦痛の美的表現としてのそうした作品が存在するというただそれだけのことによってすでに、はるか彼方にあの「支配なき差異の状態としての平和」が指し示されていることになるのだ。なにはともあれ、アドルノは、こうした平和の実現が不可能とだけは言わないのである。p266-267

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アドルノ (岩波現代文庫)

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