袁枚『随園食単』青木正兒訳註

070615.jpg


  • 本末

 粥と飯とは本(もと)であり、余の菜は末である。本立って道生ずるわけであるから、飯粥(はんじゅく)の部を作る。
  (1)飯
 王莽(おうもう)がいう「塩は百肴の将」と。余はすなわちいわん「飯は百味の本」と。『詩経』に「之ヲ釈(と)グ叟叟(そうそう)タリ、之ヲ蒸ス浮浮タリ」(ざくざくと米を浙(と)ぎ、ぽうぽうとそれを蒸す)といってある。これは古人も蒸した飯を喫(た)べたことである。しかし蒸した飯は結局汁気の足らぬ嫌いがある。上手に飯を煮(た)くとは、煮いてあっても蒸したごとく飯粒が原形のまま分明(はっきり)としており、それでいて口に入れると軟かであるようにすることである。その秘訣が四つある*1。……。
  (2)粥
 水だけ見えて米が見えねば粥でない。米だけ見えて水が見えねば粥でない。必ず水と米とが融けあって、柔らかく滑らかで、一つになって分れないようにならせて、しかる後にこれを粥というのである。尹文端(いんぶんたん)がいわれた「むしろ人が粥を待つとも、粥に人を待たせてはならぬ」(粥は出来るを待って、すぐ食わねばならぬ)と。これは真に名言である。……。p231-233

*1:一つに米の好いこと。一つに善く淘(と)ぐこと。一つに火加減。一つに水加減。