W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』(鈴木仁子訳、白水社)

それでもおりおりは、思考の流れが頭の中でくっきりと鮮明な輪郭を取ることもないではありませんでした。でもそうなればなったで、こんどはそれを書き留めることができないのです、鉛筆を握ったとたん、かつてあんなに安んじて身を任せていられた言葉の無尽の可能性がするすると萎んでいき、砂を噛んだような味気ない文句の寄せ集めになってしまう。あわれな出来損ないだとわからなかった言い回しはひとつとしてなく、虚ろにうそ寒く響かなかった言葉はひとつもありませんでした。そんなやりきれない精神状態の中で、何時間も、何日間も、顔を壁にむけて座ったまま、たましいをすり減らし、ささいな仕事や務めすらが、たとえばもろもろの物が詰まった抽斗の整頓ひとつすらが、おのれの力に余るようになることの恐ろしさを、徐々に骨身に沁みて感じるようになったのです。それはまるで、体内を長く蝕んでいた病気があるとき一気に吹き出したような、すべてを徐々に麻痺させる無気力で頑迷な何物かが私の内部に巣くってしまったかのような具合でした。私ははやくもこの額の奥に、人格の崩壊につながると思しい忌まわしい鈍麻を感じました。じつは私には記憶もなければ思考力もなかったのだ、存在してさえいなかったのだ、世界と自分とに背を向け、生涯かけて次第に消失していくにすぎなかったのだ、そういう気がしました。あのころ誰かが私を処刑場に引っ立てていったとしても、私は唯々諾々と従っていただろうと思います。口もきかず、眼も開けず、カスピ海を渡る船上ではげしい船酔いに襲われた人が、おまえを今から海に突き落とすぞと言われてもきっとなんの抵抗も示さないのと同じように。私の心に何が起こっていたにしても、とアウステルリッツは語った。p120-121

 私は其所に坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに耽っているのか、景色に見惚れているのか、若しくは好きな想像を描いているのか、全く解らなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと一口答えるだけでした。私は自分の傍にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、御嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事が能くありました。それだけならまだ可いのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱いて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然疑い出すのです。すると落ち付いて其所に書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に立ち上ります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。纏まった詩だの歌だのを面白そうに吟ずるような手緩い事は出来ないのです。只野蛮人の如くにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後からぐいと攫みました。こうして海の中へ突き落したらどうすると云ってKに聞きました。Kは動きませんでした。後向のまま、丁度好い、遣ってくれと答えました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。(漱石こゝろ』下 先生と遺書 二十八)

たとえばあるひっそりした日曜日の朝、ハリッジからの臨港列車が着くとりわけ陰気なホームのベンチに腰をかけ、ひとりの人間をいつまでも眺めやっていたことが甦ってきます。すり切れた鉄道員の制服をはおり、頭に雪のように白いターバンを巻いて、ホームに散らばったごみを箒であちらで少し、こちらで少しと掃き集めていました。その、甲斐のなさの点でわれわれが死後うけるという永劫の罰を想起させる仕事につきながら、とアウステルリッツは語った。深い忘我にひたって同じ動きを何度もくり返すその男は、まともな塵取りのかわりに片側を破り取った段ボール箱を使っていて、それを足で蹴って少しずつずらしながら進み、そしてホームの先まで行くと、また引き返してもとの場所まで戻ってきました。構内のファサードの手前に、三階まで届く工事用の板塀が巡らされており、男は半時間前に出てきたそこの背の低い扉の前まで来ると、ふいにかき消えたように(と見えました)、またそこへ姿を消したのです。いまだに自分でも説明がつきませんが、とアウステルリッツは語った。なにを思ったのか、そのとき私は男の後を追っていました。人生の決定的な一歩は、漠たる内面の衝動から踏み出されることがほとんどなのです。ともかくその日曜の朝、ふと気づくと、私は高い板塀の内側に立っていて、〈女性待合室〉という、構内のはずれの、これまで存在すら気づかなかった待合室の入り口を前にしていました。ターバンの男は消え失せていました。組んである足場にも、人の動く気配はありません。自在ドアを押して入ろうかどうか躊躇しました、が、手が真鍮の握りに触れるか触れないうちに私はもう中に入っていて、すきま風の防止に垂らしてあったフェルトの幕を通り抜け、長らく使われていないとおぼしいホールの中にたたずんでいたのです。まるで舞台に上がって、とアウステルリッツは語った。一歩踏み出したとたんに暗誦していたせりふをごっそり、これまで幾度となく演じてきた役柄もろとも永久に忘れてしまった俳優になったようでした。p130-131