アドルノ『否定弁証法』

 既存のもののカは、意識が突き当たって跳ねかえされるような正面(ファサード)を築き上げる。意識はその正面を突き破ろうと企てねばならない。それだけがイデオロギーから深遠さの要請を奪い取ることになろう。こうした抵抗のうちにこそ思弁的契機が生きつづけている。与えられた事実によってその法則を規定されることのないものこそが、対象と密接に接触し、神聖にして侵すべからざる超越を拒否しながらもなお、与えられた事実を超越する。思想が抵抗しながらも縛りつけられているものを超え出るところにこそ、思想の自由があるのだ。思想の自由は主観の表現衝動に従う。苦悩をして雄弁たらしめようとする欲求こそ、すべての真理の条件なのである。なぜなら苦悩とは主観にのしかかる客観性だからであり、主観がおのれのうちにあってもっとも主観的なものとして経験するものでさえもが、つまりその表現でさえもが、客観的に媒介されているからである。(「序論」p25-26)

 芸術を模倣し、みずから芸術作品たろうとするような哲学は、自分自身を抹殺することになろう。そうした哲学は、同一性の要求、つまり、対象がおのれに同化することを要請するであろう。なぜなら、哲学にとっては異質なものとの関係こそがまさしく主題であるのに、この哲学はおのれの方法に、素材である異質なものがアプリオリに従わねばならぬ至上権を認めようとするからである。芸術と哲学とがその共通点をもつのは、形式や形態化の手続きにおいてではなく、偽晶(プソイド・モルフォーゼ)を禁ずるような、そのふるまい方においてである。両者はいずれも相互に対立しながら、それぞれがおのれ自身の内容に対して信義を守る。つまり、芸術はおのれの意味に対して冷淡であることによって、哲学はけっして直接的なものにしがみついたりしないことによって。哲学的概念も、概念なきものとしての芸術に生気を吹き込むような憧憬、その達成が仮象としてのその直接性を逃れることであるようなあの憧憬を、見捨てるわけではない。思考の機関であり、そしておそらくは思考と思考さるべきものとのあいだの隔壁でもある概念は、そうした憧憬を否定する。哲学はこうした否定を避けることもできなければ、それに身を屈することもできない。概念によって概念を超え出ようとする努力こそが、哲学の仕事なのである。(同上 p23-24)

洗練された思想は、それが思考されている当のものにいかにわずかしか近づいていないかを心得ているものであるが、それにもかかわらずつねに、あたかもそれを完全に所有しているかのように語らざるをえないのである。このことが、そうした思想を道化に近いものにする。こうした思想は、この道化的な性格だけがおのれに拒まれている当のものに近づく希望を開いてくれるのだから、いっそうそうした性格を否定するわけにはいかない。哲学は真面目きわまるものではあるが、しかしまた、それほど生真面目なものでもない。自分がアプリオリにすでにそれであるわけでもなければ、それであるための力をなんら保証されているわけでもないようなものであろうと目指すものは、それ自身の概念からして、同時に制御されえないものの領域にも属していることになる。こうした領域は概念的な本質によってタプー視されていたものなのである。概念が自分の抑圧したもの、つまり模倣の弁護をなしうるとすれば、それは概念がそれ自身のふるまい方において、この模倣のうちのなにものかをわがものにしながら、しかもそこに自己を失なわないという仕方によるほかはない。(同上 p22)