『4分間のピアニスト』

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@テアトル梅田。殺人犯として収監されている若い女囚ジェニー(ハンナー・ヘルツシュプルング)と彼女の才能を見込んでピアニストに育てようとする老女教師クリューガー(モニカ・ブライブトロイ)。彼女たちにはそれぞれの過去があり、年齢も価値観も大きく隔たっている。アーバーやニヒトという言葉を口にすることが多いこの師弟のあいだに、互いを往き来する通交路があるとすれば、それはフモールの感覚であり、それへの身の開き方だろう。どんな苦境におかれようと、微かではあるけれど、軽みに対する親しみとでもいうものが、それだけは根こぎにされることなく、彼女たちの生のうちにしっかり息づいている。
「窓が割れていたら、どうなっていたと思うの?」「もっと眺めがよくなる」
たとえばこんなフモールが、冒頭のカー・ラジオの切り替えのシーンからラストのコンテスト決勝でのパフォーマンスにまで、彼女たちが「〜すべし」の力に抗い、フライハイトを意志することを支えるばかりでなく、それを生成してみせる場面*1においてさえ、やはりその力を貸している。http://4minutes.gyao.jp/
『VIER MINUTEN』、2006年、独、クリス・クラウス監督作品

*1:「駱駝」ではいられない二人は「精神における獅子」であることにとどまらず、それぞれのやり方で「子供」になることを、自由を実現させる。「苦痛に発言権を与えたいという欲求こそが、あらゆる真理の条件」(アドルノ『否定弁証法』)である。彼女たちには「欲求」がある。現実にあるものと真理としてありうるものとを安易に同一視することをあくまでも拒否し、規範性や真正性といったものの支配から何とかして自律性を闘いとろうとする彼女たちのこの姿勢が、そのヒューモアにも通じている。刑務所から運び出されようとするグランドピアノが横倒しにされてるのには、おやっとなって、ニヤッとさせられるし、二人が衣服を交換する場面には、大いに笑わされる。ホイリゲ風の居酒屋の庭で、ジェニーがクリューガー先生を誘ってダンスを踊るシーンもいい。映画を見ていて、ジム・ジャームッシュ(『ブロークン・フラワーズ』)やアルフレッド・ヒッチコック(『知りすぎていた男』)などの作品が思い浮かぶ。『ブラス!』(マーク・ハーマン)や『ストランペット』(ダニー・ボイル)などのイギリスの音楽ドラマも、もう一度見てみたいと思う。