『遊歩のグラフィスム』

名刺箱というBekanntschaftの迷宮の話から、ポルボウの断崖にあるダニ・カラヴァンによるモニュメント彫刻「パサージュ」まで。

 人は他の存在と直接に知り合いとなる機縁は限られているから、とベンヤミンは考えた。迷宮の入口となる「原型としての知り合い(ウーア・ベカントシャフト)」もまた限られている、と。人はその限られた入口である「原型としての知り合い」から、あたらしい知り合いの関係をつくっていくほかはなく、そこから脇道がいくつも分岐して、複雑な人生行路図をつくり出すという。こうして彼は、自己自身という迷宮の中心に至る人生行路を総称して、「わが生涯の図式(グラフィッシェス・シェーマ・マイネス・レーベンス)」と呼んだのである。(「あとがき」p304)


ベンヤミン正岡子規河原温川崎長太郎森鴎外らは、ここではランドマークというよりは、むしろ迷宮への入口の数々である。「知り合い」のあいだを行きつ戻りつしながら、ガラス板を通して見る庭の眺めについて、「私」をいかにして消滅(明滅)させるかについて、人の住むという行為につきまとう原始性について、ポエジーの理念を散文とすることについて、等々の、一見離れているようにも見える、あれやこれやの問いが渉猟されていく。
行き止まったり、角を曲がったり、裏道を抜けたりしながら自己という迷宮に通路をさぐる遊歩の行程には、「他のどのひとつにつながってもいい、またつながらなくてもいい、という自由さ」が、むろんあるのだが、それはただ自由なままに投げ出されているのではない。著者がそこに持ちこむのは「時の仕切り」であり、客観的時間の尺度あるいは時間の空間化としての「グラフ」である。あるいは「日記」であり「階段」である。
そして、「妄想」でゲーテの言葉、「奈何にして人は己を知ることを得べきか。省察を以てしては決して能はざらん。されど行為を以てしては、或は能くせむ。汝の義務を果たさんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。」を引いた鴎外に言及しながら平出隆は、「日は階段なり」と書きつける。上り下りの定かでない、またその「要求」の定かでない階段である、と。
著者がそうしているように、ここでもあわてて付け加えておくべきだろう。「去年今年貫く棒の如きもの」(虚子)よりは、「去年今年一時か半か一つ打つ」(同)のほうをとる平出氏である。その「階段」とは、もとより、果てしもなく同じリズムを刻むような規則性だけを意味するのではない。段鼻に滑り、蹴込みに爪突きかねない、そんな偶然に開かれた、絶え間のない現在をもいうのである。

瞬間の芸術は、過去に取り巻かれる。「いま」とはむしろ、見失われ、過去の事象を吸い寄せるブラックホールである。時間は過去から未来へと直線的に流れるのではなくて、流れの底や時計の一打音として、いわば凝(こご)ってあらわれる。(「XXV 日記的瞬間」p251)


著者の関心は、当然詩歌にあり、とりわけ断章やフラグメントのような、いわば「『一行』であるほかはない形式」としてのそれであり、またそれらの群れが思いもかけずに織りなす綾である。平出氏はその反復されることになる「一行」に「一日」を見てとる。そしてその「階段」としての「一日」こそが、多産を生むのだと関係づけてみせるのである。そうすれば、季節や歳月のめぐりといった「大きな時間」とは一見断絶しているかに見える自由詩形の詩であっても、そこに「日記的瞬間、それも、より大きな共同の記憶に接するときにスパークする日記的瞬間」を見ることができるのだ、と。
さて、ここまで論脈を踏み外せば、誤読ということにもなりかねないが、ともあれ、「人の生には中断はあっても終わりはない」という自身の言のごとく、著者の遊歩もまた、これからも続くのだろう。


遊歩のグラフィスム

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