『野いちご』『苺とチョコレート』『ストロベリー・ショートケイクス』

終わりではなく始まりをこそ描いた映画だろう。死を目前にした人間がやっと?変わる、その変化の兆しを描いて、見終わったあと、夢見のよかった目覚めを思わせてくれるような。老医師が名誉博士号授与式参列のためストックホルムからルンドへ自動車の旅にでる。エゴイストの老醜と孤独、そんな言葉にはおさまりきらないたくさんのものが詰め込まれているロードムーヴィー。ドッペルゲンガーの悪夢から始まった一日は、若かりし頃に住んだ旧邸に立ち寄っての甘く苦い回想、ヒッチハイクの若者たちの恋の鞘当て、関係の壊れた夫婦の憎悪、奇妙な資格試験の夢に浮かぶ息子の出生に絡んだ妻の浮気、息子の嫁によるその反復など、重苦しい過去や逃れられない現実がそれからそれへと現れ出て、鎧で固めて守ってきた強いはずの自我こそが、自分を苛む幻想のように思われてくる、そんな旅の一日になったのかもしれない。老医師は、たぶんここが肝腎なところだと思うのだが、あくまでも自分らしくありながら、しかし自身の弱さを認めることで、強さではけっして得ることのできないある種の安らぎを手に入れる。夢と影、そしてスウェーデンの海岸が美しい。授与式を無事終えたあと、夜、最後に主人公が寝入るシーンは、そのままで曙光が映されているかのようだ。英題『WILD STRAWBERRIES』、1957年、スウェーデンイングマール・ベルイマン監督作品。

友愛の確認となる抱擁だが、一片の切なさが残る。共産主義青年同盟員であるダヴィドへの片思いがついに叶わなかったからではない。別れを前提とすることで、はじめて互いを人として認め合うことができたからである。キューバ国家がこの映画を認めたのは、ホモセクシャルの芸術家であるディエゴが、横恋慕の同性愛を成就させることもないし、結局は彼が亡命へと追いやられることになるからだろう。しかしこの映画が作られねばならなかったのも、やはりそこに理由がある。直向きな彼を熱く演じたホルヘ・ペルゴリアが印象的だ。たとえディエゴの思想や同性愛が理解できなくても、必敗を承知のうえで精一杯自分の運命に抗おうとする彼の姿勢には、すんなり感情移入することができるだろう。ゲイを反革命分子だと敵視していたダヴィドが、ディエゴと哀しくすれ違いながらも、彼の教養や知性、その自由や表現への真摯な思いにふれて少しずつ自分を変えていく。その意味ではディエゴの消耗と引き換えにダヴィドが成長する物語だが、映画は、ディエゴ的な個が尊重されるような社会をけっして諦めてはいないのである。英題『STRAWBERRY AND CHOCOLATE』、1993年、キューバ・メキシコ・スペイン、トマス・グティエレス・アレア&フアン・カルロス・タビオ監督作品。

基本的にはコメディだと思う。里子からプレゼントされた願いの叶う石を秋代は海に投げ捨てる。この最後のシーンも、よく見ると二組の二人は、それぞれの相手に何かをつたえあいながらも、どこかではつながりきれていないままだ。塔子にもらったショートケイクを口にしないまま、ちひろは汀のほうに走り、それで絵の具を溶きたいという塔子の願いには応じず、東京にいるあいだに流した涙を集めたという小さな硝子瓶を逆さにする。同じフレームにおさまることから逃れるように、一人が飛び出していくショットがくり返されている。渚という、同じものではない反復をくり返しながら、それ自身であり続けているような場所を背景に、そのつながりきれていないところを残したままだからこその、彼女たちの、それでもやっぱりはじめて近づけた感、が浮かびあがる。トマトやラーメンの挿話は、四人のつながりへの伏線だったのだろうか。都会に残るだろう者と田舎で生きることにした者たち二組のそれぞれのわかれ。一枚の絵がみんなをつなぐ絵は見せないエンド。神様は要らない。そういう世界を、とりあえず彼女たちは共有しながら生きている。その孤立を完全に解消することはできないけれど、互いの健気を、なるべく自分を撓めたり縮めたりしないで、支えあえる最低限の連帯だけは、何とか叶った、という感じだろうか。棺桶で眠る女性という設定と、それが最初に映るシーンが面白い。海に出て終わる映画。2006年、矢崎仁司監督作品。