『カルヴィーノの文学講義』米川良夫訳

 時計がシャンディの最初のシンボルなのだ−−と、カルロ・レーヴィは書いています−−。その影響の下に彼は生まれ落ち、彼の不幸が始まるのだが、それはこの時間の象徴物と一体のものなのだ。死は、ベッリが語ったように、時計のなかに潜んでいる。そして生きるという不幸も−−個々の生、この断片に過ぎぬもの、ばらばらに引き裂かれて、全体性を奪われているものの不幸が。死とは時間なのだ、個体化の、隔離の時間、おのれの終末へと転がってゆく抽象的な時間なのだ。トリストラム・シャンディは生まれ出て来ようとしない、死にたくないから。死と時間から逃れるためにはあらゆる手段、あらゆる武器も許されるのだ。宿命的で避けがたい二点のあいだの最短距離が直線であるのなら、脱線がこれを引きのばしてくれるだろう。そしてもしこの脱線がうんと複雑になって、ぐるぐると絡まりもつれて、ついには痕跡を見失わせるほどにスピードがあがるならば、もしかして死ももう僕たちを見つけられなくなり、時間も道を見失い、僕たちは変幻自在の隠処(かくれが)に姿を隠していられるかもしれない。


 これは私を考えこませる言葉です。というのは、私は好んで脱線するというほうではないからです。むしろ直線に身を任せるほうが好きだと言ってよいでしょう、それが無限に続いて、私を誰の手も届かない所へ連れ去ってくれる希望を抱きつつ。p81-82


錨と海豚。いや、それよりも蟹と蝶。「ゆっくり急げ」を自分の標語(モットー)とするカルヴィーノはまた、「私が信念としていることは、散文を書くということが詩を書くことと異なっていてはならないはずだという点です」とも書きます。
「新たな千年紀のための六つのメモ」のうちの二つ目、速さについてふれられたこの文章は、荘子が王に依頼され、もらった五年の猶予を十年にまで引き延ばしつつ、それでも全く手をつけずにいた蟹の絵を、ついに期限が来るというまさにそのとき、一瞬にして描きあげるという、印象的な話で閉じられている。