『ホイットマン自選日記(上)』杉木喬訳

  • 潜んでいる

 ただ一人、このような静まり返った森の真中にやって来て、あるいは荒涼とした大草原や山の中の静けさの中にあるような、孤独の静穏さや寂しさの中にいるとき、人間が、誰かが現われはせぬか、地面の中から、あるいは木蔭、岩の蔭から飛び出しはせぬかと、あたりを見まわす本能を決して失くしてしまわないのは、どうしてだろう?(わたし自身そうだし、ほかの人たちも、それは同様だと、わたしにそっと打ち明けている。)それは野獣類からの、それともずっと昔の野蕃な先祖からの、人間の原始的な警戒心の今なお尾を曳く遺伝的名残りなのか? 決して不安や恐怖ではない。まるで何か得体の知れぬものが、ひょっとしたらあの藪やさびしい場所に潜んでいるかも知れぬというような。いや、確かにいるのだ−−ある生命ある目に見えぬものが。p211(「人間の奇癖の一つ」)

  • 身を潜める

そうだ、歴史などに、これが書けるものか−−第一誰が知っていよう−−かかる−−両軍の、離ればなれの大小すべての隊の、死にもの狂いの、決然たる乱闘を−−各人、頭のてっぺんから足の爪先まで、決死の精神にみなぎった姿を? 誰が知ろう、この白兵戦を−−あの暗闇の、鬱蒼、混沌とした、時折月光のきらめく、森の中の多くの戦闘を−−身もだえする集団と分隊と−−叫喚、喧噪、弾ける小銃とピストルと−−遠くの大砲−−喚声と、ラッパのひびきと、威嚇と、恐ろしい呪詛の音楽と−−形容しがたい混乱−−将校たちの命令、説得、激励、−−人間の心の中にすっかり目覚めた悪魔−−「突貫、突貫」という絶叫−−抜剣のひらめき、巻き上がる炎と煙とを? しかもなお、雲の切れた、晴れかつ曇る天空−−しかもなお、再び月光は万物の上に銀色に、やわらかに、光りの断片を投げかける。(……)
(……)形式ばった将軍の報告書も、図書館の書物も、新聞の欄も、南北、東西の、最高の勇者の名を、永遠に留めることはない。ただただ、名もなく、世に知られることもなく留まるのだ、これら最も勇敢な兵士たちは。わが最も男らしい男たち−−わが児たち−−わが最愛の勇者たち、彼らを描く絵は一枚もないのだ。恐らくは、彼らの典型的な者は(もちろん、幾百、幾千の者を代表しているのだが、)致命の銃弾を身に受けるや、かたわらの藪や羊歯の茂みに這いより−−木の根や草や大地を、赤い血潮で染めながら、しばしそこに身を潜める−−戦いは進み、退き、そこを遠のき、さっと通りすぎ−−そしてそこで、恐らく痛みや苦しみと共に、(だが、想像する以上に痛みは軽く、はるかに軽く、)最後の昏睡が蛇のように彼に捲きつく−−眼は死のためにどんより曇り−−気にかけてくれる者とてなく−−恐らく一週間もして、休戦になっても、収容隊はこの奥まった場所を探しはしまい−−そこで、ついに、「最も勇敢なる兵士」は、母なる大地に崩れ行く、葬られることなく、世に知られることもなく。p75-77(「一週間余り前の夜戦のこと」「最も勇敢な兵士は知られることもなく」)