おお言葉よ、意味がない!


シニフィエが消えた記号には意味がない?いやそうではない。その空虚な記号から生まれる意味作用のうちに、むしろ意味は横溢するのだ、というようなことは、これまでに何度も目にし耳にしてきた気がするけれど、こうしてあらためて佐々木氏にいわれてみると、やっぱりはっと思う。そういえば職場のメールに「ヒヤリ・ハット報告書」という件名で「日常の業務で「ヒヤリ」「ハッ」とした事をご記入の上ご提出ください。」なんてのが来ていました。

バルトと竹内(竹内好−−引用者註)は、それぞれの視線を「日本」に向けているが、二人ともそれぞれの国における抵抗のできない「権力」に批判の目を向けているのは共通している。バルトにとって、権力が刻まれた西欧のことばは、ごまかし(tricher)、はぐらかす(decevoir)べき対象であったが、それは意味が詰められたことばを前提にして言えるのである。そうであるからこそ、ことばの外へ出たり、ことばの期待を裏切ったりすることが、人間の自由を実現する一つの試みになる。しかし、人は空虚な記号の国の、シニフィエが蒸発していることばに対しては、それをごまかしたり、裏切ったりすることはできない。嘘をついたり、だましたりするためには、ことばに意味を詰めようとする主体がいなくてはならない。人は、はじめから意味の消えていることばによっては嘘をつけないので、われわれは嘘つきであることなく、権力の強制力に服するよりほかに、策がないのである。天皇制の権力が大きな支配力をもつ背景の一つには、人がことばのシニフィエを完全に没却したまま、あらゆることを強制的に言わされるがままとなっている言語環境がある。(佐々木孝次『文字と見かけの国』p115)


自分も知らないうちに「かけ声」をかけてしまってました、なんてのは、いくら「ヒヤッ」とした経験であっても、どうも件の報告としては受け取られそうになさそうです。KYというのはあれですけれども(またKYRっていうのでもなくて)、自覚的空気盲(JKM?)でいたいときって、あります*1


文字と見かけの国―バルトとラカンの日本

文字と見かけの国―バルトとラカンの日本

*1:こうした書きぶり自体どうなのか、ということも、もちろんある。概念ではなく感覚で(のみ)とらえらるような記号がもつ権力の源泉としての側面には、気がつかないことが多い。自分が主体的にことばに意味を与えているわけでもないから、知らないうちに強制する側、支配する側のイデオローグとなってしまっていることも多々ある。しかしそのイデオロギーが理性的に処理できないなら、どうやってことばによってそのふるまいをチェックできるのか、とあらためて問われてみると、やっぱり「ハッ」とせざるを得ないのである。