『シティ・オブ・ゴッド』『イン・ディス・ワールド』


少年はその課程の半ばで高専の門を出て行った。一歩青年に近づいた顔をして。これが希望的観測でないことを祈る。
少年はふつうには大人のような力をもたない。しかしときに(とくには生き抜くという場面において)大人以上の力をもつことがある。一人の少年の力は人殺しを平気で(むしろ享楽としてさえ)できるという才能である。しかしその力は、ますます彼を外のない世界に閉じ込めることになるだろう。もう一人の少年の力は外国語を、ここでは英語を、操る能力だ。この力は、彼が外に活路を見出すうえで大きな支えになってくれることだろう。だれもが彼らの現場に立ち会う行動力をもちあわせているわけではない。そして映画は、〈紙面を飾ることなく葬られた/葬られている夥しい数の写真〉の存在を忘れはしない。またも書き忘れるところだったが、この全くタッチの異なる二つの映画はしかし共通してサッカーに興じる少年たちを映していたのだった。暴力と言葉のはざまを軽々とすりぬけつつボールを追い、まるであとからあとへと地上に生み出されては口をあける世界の綻びを繕い続けてでもいるかのように遠近と地面を駆けずり回る少年たち。リオの神の街で、あるいはペシャワールからロンドンへの途上で立ち寄ったどこの街でも。青空の下、たとえボールが銃弾で撃ち抜かれようとも(その点、布をくるんで作られたボールはしぶとい)、動じることなくプレイを続ける子供たちの姿は、なんとも気持ちがいい。