『マスク』


仮面は、よく知られているように、見せると同時に隠すものである。曝されていたものは覆われて、潜んでいたものが露わになる。『しあわせ』という映画でいえば、主人公(たち)がずっと撮り続けていたヴィデオ映像が再生されるとき、それはちょうど仮面と同じ役割を果たすことになる。そこには過去が映っていて、当然のこと現在は映っていない。そこにはもはやない(いない)ものだけがあって、いまある(いる)ものはそこにないのである。それはあるいは、墓標のようにそれを見るということなのかもしれない。「いま」を離れて「むかし」に入っていくということはまた、「むかし」ではけっしてありえない「いま」にこそ生きている自分に、否応なしに気づかされるということでもある。仮面「擬き」が溢れている。たくさんの写真、そして映画。わたしたちは、(それらのすべてではないにしても、かなりの程度で)仮面のようにそれらを見ている。たとえそこに顔が映っていなくても。顔面に仮面を宛うだけで、どんなものにも変身でき、世界を思うがままにできる。そういう力をもつ存在へと成り変わるちょうどその界面において、猛烈な渦巻きがまさに巻き起こる。そうかやっぱりここにも渦があったか。