踏み迷い


少年の母親と話す。進路に踏み迷っている少年。正直なところ、青年よりは少年が相応しい彼だ。夢を追う子供だが、じつは現実から逃げているだけではないか。心配する母親の気持ちは、他人ごとではなく、よくわかる。わかるのだがしかし、どこかで彼を信用してやらないといけないのだろう。実績はたぶん、そのあとから作られるので、実績があるから信用されるというのでは、はじめの一歩を踏み出す力の支えにはならない。そんな気がした。
なくしていた(先日のエントリーでふれた映画『しあわせ』に関する)メモが見つかった。ここに再録するまでもないようにも思ったけれど、そして今夜、少年のお母さんに話しきれなかったことを補填してくれるわけでも全然ないのだが、言葉の移ろいを示す例としてとりあえず書き置くことにする。
鳴門の渦潮は、太平洋の潮波の大部分が明石海峡から瀬戸内海に入るため、大潮のときには、鳴門海峡とのあいだで落差が約1.4メートルにもなり、約10ノットの潮流が生じて、のものらしい。粘性のある流体中における各部の運動のずれ。ウソとマコト。速度の異なる二つの流れが合わさるとき。ウソが人生を救う。いや、人生こそが最大のウソなのかもしれない。孤蓬。枯れたヨモギが毛玉のように丸く塊になって辻風に転がり舞う。浮雲遊子意、落日故人情。燃えあがる火、崩れ落ちる炎。自転と公転。できごと。それを偶然というカオス(ハザード)の場に見出すにせよ、必然というコスモス(潮流)のうえに認めるにせよ、私たちの生がつねに変化し続ける、ある流れであるとして、そこで出来事と名づけられるべきほどのことならば、それはもはや単なる流れや回転ではないだろう。渦。それは何かからの逃避であり、何かの回避であるとともに、まさに何かの渦中にあるということでもある。つむじ風。旋風。瓢風。渦をなす回転は艱難辛苦であり、また忘我陶然でもあるだろう。旋舞。パリ、ヴェニスからカナダ、アメリカを経てトルコへ。スーティンとスーフィーとの出会い。身体が自ずと回りはじめる。回転を生きる渦は、弾き飛ばし、近寄る何ものをも寄せつけず、また引きずり込み、遠ざかる何ものをも呑み込んでいく。酔うというそのことが、もっとも近いのかも知れない。人物がそこで静止しているまさにそのとき、虎落笛の音が聞こえてきそうな映像である。
書き忘れるところだったが、この映画では、災厄に重なる追い打ちのような災難がしかし、主人公を再生へとうながすことになる人々との出会いを導きもするのである。