『ああ爆弾』


オープニングは刑務所の囚人、大名大作(伊藤雄之助)と田ノ上太郎(砂塚秀夫)のふたりによる狂言もどき。やがては親分と乾分になる二人の、ぐいぐいと物語世界に引きこんでいくセリフ、音楽、身体の所作がすばらしい。カット、クロースアップ、足さばき。形があり、リズムがあり、美しさがある。なんだこの映画、タイトルロールののっけから導火線。しかも、とぐろを巻いたそれ。とても二つの中心をもつ楕円にはおさまりそうにない。これからの時代は暴力ではなく、ペンの力だ。親分の留守の間に組を乗っ取った、この怪しい演説をする市会議員立候補者、矢東弥三郎(中谷一郎、『水戸黄門』では初代「風車の弥七」さんね)のペンこそが曲者。それに似せて作られた爆弾はしかし、一体誰の手に渡るのか。ゴルフボールに仕込み替えても同じこと。世間知だけは大人以上にあるように見えても、まだまだ幼くて無垢な小供、大名健作の間近に届くのだ。動くしかない。しかし行動に指針はない。つねに受動的。ヒトにモノにコトに追われるしかない人物たちに、理性など求めるべくもない。活力だけを頼りに生きる彼らが従うのは、弱肉強食という法である。ヴァキュームカーのホースを使ったギャグも冴えている。爆弾はテストを除けば都合二回爆発するのだが、いずれも誰をも殺めることなく、つまりは当初の目論見は外れて、事なきを得る。そして映画は、それでいいのだと。たとえ悪への報復であれ何であれ、爆弾でもって瞬時に解決してしまえるような安易な問題など、この世にありはしないのだ。ラストはやや詰めを急いだ観があるものの、そして途中幾度か『ウェスト・サイド・ストーリー』をちょっと茶化したような場面があるけれど、そのアカデミー受賞作に勝るとも劣らない出来映えだと思う。引き締まった画面構成、軽快なテムポ、鋭い批評精神に舌を巻いた一作。南無阿弥陀仏の大作の本妻梅子役として、南無妙法蓮華経を唱える越路吹雪が出ている。
1964年、日、岡本喜八監督作品。