『インランド・エンパイア』


先日@梅田ガーデンシネマ。どこまでがホントウで、どこからがウソか、なんて思い煩うことなく、あなたにとって何がリアルだったか、それだけでよろしい、そう言われているような気がした。だってこれ、映画ですよ、って。

この点でわたしは、どこかの森のなかで道に迷った旅人にならった。旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一ヵ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。(デカルト方法序説』(谷川多佳子訳)岩波文庫、p36-37)


「まっすぐ」が許されない世界には、出口もなさそう。でも、糠喜びに終わるにもかかわらず、この邂逅があるなら、もう一度見直してみてもいいかな、と思わせるシーンがある。それよりなにより、踊っちゃいましょうか。

 ふいに右の茂みで銃声がした。つぎの瞬間左で銃声がした。前でも後ろでも銃声がした。弾音の波はゆらりとひるがえって四方から襲ってきた。私が伏せるより速く凶暴な、透明な波が茂みを疾過した。大尉とミラーが体を伏せ、イーガンが木のかげにとびこんだ。大尉とミラーの臀のかげに私はころがり、必死に顔で枯葉を掘った。波はふるえ、唸り、叫びながら走り、息もつかせず第二波、第三波が走りだし、葉が散り、枝が折れ、あたりは弾音と兵たちの甲ン高い叫びにみたされた。来た。これだ。ついに来た。絶対は無機質の、乾いた、短い憤怒をたたきつけてきた。私は迎えた瞬間にふるえあがって閉じた。鼻を枯葉におしこみ、私は眼をひらき、眼を閉じた。暗い肥沃な枯葉の匂いが鼻を刺した。眼は瞬間に見た。無数の蟻の群れが右に左にせっせと勤勉にはたらき、一匹の蟻は体の数倍もある病葉(わくらば)の一片を顎に咥えてよろめいていた。(開高健輝ける闇』p268)


生きていくうえにおいては、判断を遅らせることができない場合が多い。そこでは疑うための疑いなどという余裕はない。しかしデカルトが幾つかの生活上の格率を得てなお「再び旅に出」て、しかも「世界で演じられるあらゆる芝居のなかで、役者よりはむしろ観客になろうと努め、あちこちと巡り歩く」のは、そうした実生活における道徳とは別の次元で彼にホントウへの意志があったからにほかならない。ところで従軍記者は踊っているのでしょうか、見ているのでしょうか。

 人間は奇妙な動物で、生きている自分を見つめたり、自分に価値を与えたりします。そして彼は、役に立たない知覚や、自分の肉体が生きていくうえで全然重要ではない行為のなかに意義を認めて、そうした価値を与えるのが好きなのです。
 パスカルは、わたしたち人間の威厳のすべては思想のなかにあると考えていました。しかし、−−わたしたちの目からすれば−−わたしたちを感覚世界の条件を超えた存在へと高めてくれるこうした思想は、まさに何の役にも立たないものなのです。わたしたちが事物の起源や死について瞑想したとしても、それがわたしたちの身体の役に立つわけではありません。さらに、そうしたきわめて高いレベルにある思考は、人類にとって、むしろ有害であるばかりか、命取りにもなりかねません。最も深遠なわたしたちの思考とは、わたしたちの生の保存に最も無関心な思考のことです。(ヴァレリー「舞踊の哲学」『ヴァレリー・セレクション 下』東宏治・松田浩則編訳、p128-129)

真昼の深夜が訪れる。ここでもゴム林、国道、水田、すべてがけだるい仮死におちこみ、天井のヤモリまでが昼寝する。ゲートも歩哨も鉄条網も地雷原もあったものではない。この麻痺を狙ってそれこそバスに乗りこんでなだれこんだら、と私は思うのだが、いっこうにその気配はない。みんなのびのびと顔をひらいて眠りこけている。おそらくジャングルのなかでもこうなのだ。夜がなくて昼ばかりだったらこの不思議の国では誰も死ぬ者はあるまいに、とさえ思えてくる。パスカルは国境というものについて顔も言葉もおなじ人間が岸のあちらとこちらにいるという違いだけで殺しあいをするという感想を書きつけたことがある。けれどここでは虚無が赤裸の晴朗に達しているのだ。おなじ岸にいてとなりどうしで昼寝する仲の人びとが、ただ目がさめただけで、たちまち殺しあいをするのである。虚無の性格をこれまで私はまったく誤解していたようだ。それは暗く卑小でみじめなものではない。空をみたす透明な炎の大波に撫でられて私はベッドにたおれ、とろとろと沈んでいく。(『輝ける闇』p44-45)

 哲学者は歓喜します。外部がないんだって! と。女性舞踊家には外がありません……。彼女が自らの行為で作り出す体系のかなたには何もないのです。その体系は、睡眠というまったく逆の、しかしながら同じくらい閉じられた体系を思わせます。睡眠の体系の法則は、舞踊家の作る体系の法則とはまったく逆で、行為の全面的な消滅、節制というところにあります。
 舞踊は哲学者の目には人工的な夢遊病のように、自分用の住まいを作り上げる感覚の集まりのように映ります。……。踊る存在は、ときにどこかに向かうかと見えて、実際はどこに行くわけでもなく、ときにその場で変容し、あらゆる角度から自分の姿を人目にさらします。また、うまく調整された諸段階を経るように、連続する外見を知的に転調させたかと思うと、素早く渦巻きに姿を変えて加速します。ところが次には、突然身体を固定させ、奇妙な笑みを浮かべた彫刻へと結晶化するのです。(「舞踊の哲学」前掲書p137-138)

 兵の顔には指図されることへの嫌悪、憎悪、侮蔑、反抗などは見られなかった。そのような意識らしいものは何もなかった。ふいに彼は手も足もいきいきしながら失神してしまったのである。朧だが痛い感嘆と畏怖を私はその兵におぼえた。これほど精妙で無邪気、また徹底的な拒否をまだ私は見たことがない。よほどの消耗がなければこのような無化はできることではないと思えてならない。幾度もどん底におちこんだ経験が少年期から青年期への私にはあったけれど、それほどの状態はまだ知らない。ここへ来てからもそうだ。水田の畦道や陸軍病院や戦闘直後の草原などで私はいくつとなく変形した人体を目撃したが、けっして《シャッター反応》を起すことはなかった。すぐに私はよみがえって何がしかの言葉を滲出し、原稿を書き、東京へ送った。そしてサイゴンの銀行に振込まれた金をうけとり、ショロンで広東料理を食べ、むくむく肥った。惨禍を見れば見るだけ私のペンは冴える。私は屍肉を貪るハイエナなのだ。鋼鉄の船腹にくっついたフジツボほどにも私はあの兵の倦怠と疲労を舐めることができない。兵はまさぐりようもなく疲弊している。(『輝ける闇』p90-91)

舞踊は自らの状態のなかで生起しますし、自分自身のなかを動きまわります。そして、それ自身のなかには、いかなる理由づけも、完成へ向かおうとする傾向もありません。純粋な舞踊を言い表す公式には、舞踊に終わりがあることを予想させるようなものは一切含まれていてはならないのです。舞踊を終わらせるのは外的な出来事です。舞踊の持続時間の限界は、舞踊に内在的なものではありません。それは見世物の都合上定められた限界にすぎません。疲労や興味の喪失が介入してくるということです。しかし、舞踊そのものには終わる手段はありません。舞踊の終わり方は、夢の終わり方に似ています。無限に持続が可能なものというのが夢なのですから。(「舞踊の哲学」前掲書p139-140)

 ふたたびどこからか瞶められているのを感じる。いまはそれがあるだけとなった。生還できるだろうか。にぶい恐怖が咽喉をしめつける。だらだらと汗をにじみつづけるだけの永い午後と、蟻に貪られっぱなしの永い夜から未明へを送ったり迎えたりしているうちに自身との蜜語で蔽われてしまえば汚水に私は漬かる。徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。煽動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、眼を輝かせ、犬のように死ぬ。見ることはその物になることだ。だとすれば私はすでに半ば死んでいるのではないのか。事態は私の膚のうちにのみとどまって何人にも触知されまい。徒労と知りながらなぜ求めて破滅するのか。(『輝ける闇』p251)


ヴァレリーはこうも書いていました。「芸術創造は作品の創造というよりも、作品の必要性の創造という面が強いのです。なぜなら、作品とは生産物であり、供給品であり、それは需要と欲求を前提としているからなのです」。

人を支配するもっとも隠微で強力な、また広大な衝動、最後の砦は自尊心であった。私はバグを持っているあいだ何がしかの自身を保持しているかのように感じたが、それが砕けて溶けてみると、一瞬の自由が閃き、和んだ。一瞬に柔らかい波があらわれて私を温かく包み、ほぐしてくれた。藺草のなかでかすめた死の蠱惑にそれは酷似していて、のびのびした清浄にみちていた。私はバグを捨て、口をあけて走った。兵たちは主人や番犬がいなくても正確に家路をたどる家畜のように一定の方向をめざして走った。右、左を凶暴な、透明な力がきしったり唸ったりしつつ擦過し、木の幹が音をたてた。私は閉じて、硬ばった。耳いっぱいに心臓がとどろき、私は粉末となり、闇のなかで潮のように鳴動していた。私は泣きだした。涙が頬をつたって顎へしたたり落ちた。小さな塩辛い肉の群れに無言でおしわけられ、かきのけられ、卑劣や賤しさをおぼえることもなくそれを鈍くおしかえし、つきかえしつつ私は森へかけこんでいった。(『輝ける闇』p286-287)


従軍記者は、見るだけのためにもやはり踊りつづけなくてはならないのか。森から出ていくのではなく、森のなかへと走りながら。
方法序説』でデカルトは、第三の格率として次の点についてもふれていた。すなわち「運命よりもむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、努めること」「そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけること」。

いくら良いものでも、われわれの外にあるものはすべて等しく自らの力から遠く及ばないとみなせば、生まれつきによるような良きものがないからといって、自分の過ちで失ったのでなければ、それを残念とは思わなくなる。中国やメキシコの王国が自分の所有でないことを残念に思わないのと同じように。そして、ダイヤモンドのように腐らない物質でできた体や、鳥のように飛べる翼を持ちたいといま望まないように、いわゆる「必然を徳とする」ことによって、病気でいるのに健康でありたいとか、牢獄にいるのに自由になりたいなどと望まなくなる。ただわたしは、万事そういう角度から眺める習慣がつくまでには、長い修練とたびたび反復される省察が必要なことは認める。(『方法序説』p38)


映画『インランド・エンパイア』を見ながら、なぜデカルトの言葉なんかを思いだしたのかを考えてみようとした。踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら…。踊ることができない阿呆は見ることもできないのか。あるいは「われ思う、故に、われ在り」をもじっていえば「われ見る、故に、われなし」とでも言いたかったのか。いずれにしても、うまくはいかなかった。きっとまだ「どこまでが内でどこからが外か」を考えてしまっているのでしょう。それを考えるな、という映画だと思ったにもかかわらず、です。
近所に越してきたというバアさんが女優を訪ねてきて、女優には出演予定の映画があって、バアさんはその映画についてだけでなく女優の未来までをも知っているかのようで、それを女優がなぞるように幻視しているのか、映画には以前に出演者が殺されて中絶したという前作があって、そのリメイクであることがわかってきて、女優の映画の撮影が進んでいるようで、しかしそれが前作の内容のようでもあり(どちらにも出てくる人物がいる)、またどちらかの映画のなかに設定された虚構のようでもあって(ウサギ人間たちの部屋、それをモニターで見ながら泣いている少女、これはバアさんの登場前にも映されている)、女優ニッキーがいる世界と彼女が幻視している世界?と彼女が演じているスーザンの世界とが通底しているだけでなく、それらの区別さえつかず、殺したり、ドッペルゲンガーを見たり、殺されたり、捜しあてた少女が夫も捜している相手であったり、種明かしのように元の世界に戻ったかに見えて、だからそれまでのことはすべて女優の幻視だったかというと、どうもそうとも言えなくて、という続きの世界が置かれている。
ところでバアさんの英語、あれってポーランド訛?*1

 ここで次のような仮定をしてみてください。つまり、その芸術家が十分に熟練していて、自分の使う手段を確実に使いこなす自信があるので、皆様が彼を観察するとき、すっかり演奏家になりきれるほどだと、したがって、その連続的操作が通約可能な時間で、つまりリズムを伴って行われる傾向があるほどだと。そうすると、皆様は絵画なり彫刻なりの芸術作品の制作自体を芸術作品そのものと考えることができるようになるのですし、芸術家の指で細工される物質的な対象は、舞台の小物やバレエの主題のように、作品制作上の口実にすぎなくなるのです。
 こうした見方を、皆様は大胆すぎるとお考えでしょう。しかし、多くの偉大な芸術家にとって、作品とは決して完成しないものなのだということをお考えください。(「舞踊の哲学」前掲書p144)


閉じられているから何とか作品になっている、というか、閉じないと作品にならないからとにかく終わらせてあって、終わり方でいうと開かれているともいえる、というか。思うに、直接には見えない「制作自体」を「作品そのもの」と考えたいような映画だったし、見ることに支えられて(見る者と一緒になって)踊ることそのものになっちゃってるような映画、でした。
http://www.inlandempire.jp/index_yin.html

*1:だとしたら彼女は、『輝ける闇』における奉仕団に志願してやってきたアメリカ老人のように、他でもないここがインフェルノなのだとはっきり知らせるために拵えられた存在?