加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』

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『裏窓』って、何回見ても(実はこのあいだも見直してみたんだけど)宙ぶらりんで、殺人現場も死体も映らないし、最後の警官たちのセリフもなんだか中途半端だし、気持ちのよくない終わり方なんですよね、これが。で、どうなの? 本当に妻殺しはあったの、なかったのって。そんなことを思っていたからでしょうか、本屋さんで偶然目についたのですが、こういう本があったのですね。2年くらい前に出ています。昨年に出版された同じ著者の『映画館と観客の文化史』も読んでいるのに、なんで気がつかなかったのかな。
それはまあいいとして、『裏窓』で殺人事件が起きたかどうか、確定できないのはどうしてか。この本は、その犯人が「外見と内実との乖離」だったんだって教えてくれます。見た目と中身とのずれ、ね。それから、この「外見と内実との乖離」が他のヒッチコック作品(やエリック・ロメールの映画)にもあること、それが古典的ハリウッド映画を脱構築したことが指摘され(映画みたいにスリリング!)、最後に「外見と内実との乖離」の傾向についての(ハリウッド映画としての『裏窓』の)映画史的位置づけがなされます。さらっと読みやすく書かれていますが、しっかり元手のかかっている研究です。
あ、それからこれを読んでいて気がついたんだけど、たとえば『グエムル』の家族が最初から壊れちゃってるのが、「切り返しの排除」でもっても示されていたこと*1。最後に映される、タフに生き延びていくかに見える男と少年にしても、もうズレの芽のようなものさえ描かれていること*2。『サイコ』もまた見直してみたくなる本です。

*1:グエムル』は、全編これ切り返しを意識的に排除している作品で、稀にあっても肩越しにして同じフレームにおさめたり、そのすぐあとに自殺させたり、相手がTV画面や黒い額縁に納まった写真だったり、半透明のカーテン越しだったり、マスクとフードでもって顔のほとんどが隠されていたり、ヘルメットのシールド越しだったり。たとえば父親が怪物にやられるシーンは、長男との切り返しになりそうな一瞬を中断して、であり、次に映る長男の顔は正面からでなく、側面から撮られている。この映画でまともな切り返しがあるのは孫娘と少年とのあいだにだけなのである。

*2:ここでもやっぱり切り返しが一瞬だけあるんだけど、少年のほうの視線は斜めにずれていたりして。